蒲生氏郷の遺産

『老人雑話』に「玩愚にして天性臆病の人なり」と記された平安末期からの近江蒲生郡の日野城主蒲生賢秀は、織田信長による近江国主六角義賢攻め際に信長に下る。その時、信長に人質として差し出されたのが氏郷。賢秀は分不相応な野心を抱いていないという理由で信長の信頼を受け、本能寺の変の時には安土城留守居役となっている。賢秀が迫る明智軍を前にして信長の妻子を連れて領地の日野に脱出した点の是非は賛否が分かれる。賢秀は父祖伝来の日野の地で没した。最期まで日野の土豪の域を出なかったと言っても過言ではない。一方、子の氏郷は信長の娘冬姫と結ばれ、信長から「わが小さき婿殿」と呼ばれ可愛がられた。信長は縁故の者であったとしても能力のないものは重用しない。その点、氏郷には才能があったと見るべきだろう。氏郷は山崎の合戦の後に羽柴秀吉に与し、小牧・長久手の戦い(1584[天正12]年)において、織田信雄の伊勢国に侵攻し戦功を挙げ、南伊勢郡12万石を得ている。更に、1590(天正18)年の小田原征伐の後に会津42万石を得た。現在、会津若松というが、元は会津黒川であり、若松は氏郷が故郷蒲生郡の若松の森に因んで名づけたもの。大崎・葛西一揆を平定した後、九戸政実の乱をも平定したことにより92万石を得ている。大出世だが氏郷は会津を得た時、「都から遠すぎて天下を望めない」と悔しがったと伝えられている。真偽は定かではないが、こうした話が伝わるほどに父親とは違っていたということであろう。豊臣政権の中で徳川家康、毛利輝元に次ぐ大大名となったが、日野4万石時代からの譜代の家臣は多数いたものの父親の代に大きな戦を経験しなかったために能力のある中堅が存在しなかった。その上に、氏郷が急速に所領を拡大したために、各地から浪人衆を雇った。そして、氏郷は40歳の若さで急逝してしまう。跡を継いだ秀行の代に家中で死闘事件が勃発。遂に、秀行は宇都宮18万石に減じられる。家中の統制はひとり氏郷の個人的力量でのみ支えられていたのだ。ちなみに、減封によって浪人となった蒲生家臣を抱えたのは石田三成であり、彼らは石田三成とともに殉じていった。

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