トロイ

B.C.12世紀に起った史実の伝承とされるトロイ戦争を題材としたスペクタル映画。

トロイと言えば、ホメロスの叙事詩『イーリアス』に登場し架空のものとされていたものがドイツ人考古学者シュリーマンの情熱によって存在が明らかにされた都市。『イーリアス』でのトロイ戦争の叙述も情熱的なら、忘れ去られたトロイの街を突き止めたシュリーマンも情熱的。

という訳で、トロイ戦争を題材としているというだけでワクワクさせられる。

更に、トロイの王子でありスパルタの王妃ヘレン(ダイアン・クルーガー)を奪ったパリス役に『ロード・オブ・ザ・リング』のオーランド・ブルーム、対するギリシア連合軍の勇者アキレス役にブラッド・ピットと言われれば見ない手はない。

『イーリアス』を題材にとってはいるが、内容は『イーリアス』のトロイ戦争とは異なる。そもそも、『イーリアス』ではヘレネはパリスに略奪されたことになっていて、トロイ10年戦争の後にスパルタ王メネラオスとヘレネは揃ってスパルタに凱旋している。

ところが、映画ではヘレネとパリスとは相思相愛の仲で、この二人の愛が軸になって物語が綴られている。メネラオスとパリスとの一騎打ちも『イーリアス』にあるが、『トロイ』ではメネラオスはパリスの兄の英雄ヘクトルに討たれている。

パリスがヘレネを略奪したことでトロイ戦争が始まり、ヘクトルがギリシア盟主ミュケナイ王アガメムノンの弟のスパルタ王メネラオスを討ち、アガメムノンの征服欲に復讐の炎を注ぎ、アキレスの従兄弟を討ったことでアガメムノンと距離を置いていたアキレスの怒りを誘う。なお、『イーリアス』ではヘクトルに討たれたのは"親友"パトロクロス。

『イーリアス』と『トロイ』との間にストーリーの相違はあるけれども、愛が憎しみを産み憎しみが更に愛と憎しみを引き起すという熱情の連鎖は共通している。むしろ、ウォルフガング・ぺ?ターゼン監督はこの熱情の連鎖を映画に込めたのだろう。

ただ『イーリアス』を忠実にスクリーンに映しただけではないということは、ギリシア連合軍がトロイの砂浜に上陸するシーンでも明らか。このシーンにデジャブーを感じたのは私だけだろうか。そう、トロイ王国軍が放つ無数の矢を銃弾に替えれば、戦争映画に変革をもたらしたスピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』のオマハ・ビーチ上陸のシーンそのものと思えた。銃弾も矢も浴びるほうにしてみれば恐ろしさに変わりが無いということを改めて認識させられる。但し、銃弾による闘いと矢による闘いとの違いは、戦いの主役達の熱情がそのまま直接的に戦いに反映されるというところだろうか。

集団で闘うけれども、そこには個人がある点というべきか。

映画でも、そこの所はきちんと表現されている。

ヘクトルとアキレスの一騎打ち。アキレスの元にヘクトルの亡骸を乞いに来るトロイ王プリアモス。そこで、我に戻って同じく勇者としてヘクトルの亡骸に兄弟と呼びかけるアキレス。ここには紛れも無く個人が存在している。

個人が確かに存在しているからこそ、アキレスはトロイ王プリアモスとの間でヘクトルの喪の期間の停戦を総司令官であるアガメムノンに無断で決める。

更には、イタカ王ラエルテスの王子オデュッセウスの木馬作戦で木馬にギリシア連合軍とともに身を隠したアキレスが目指したのはトロイを陥落させることではなく愛を見出したトロイの王女を救うためというのも愛ではない熱情が愛を産みだしていることの証左。そして、その王女との再会も束の間、スパルタ王メネラオスとの一騎打ちで軟弱さを曝け出し、目の前で兄ヘクトルをアキレスに討たれた、トロイ王パリスによってアキレスが将に弱点であるアキレス腱を矢で射られる。再会を果たし、愛を確かめ合うというその瞬間、人間としての弱みを見せた瞬間に身体的な弱みであるアキレス腱を射られる。ここに二重性が見て取れる。

愛と憎しみの熱情の連鎖を描いているという点でスペクタクル大作と呼ぶに相応しい。

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