トーキーとチャップリン

 「映画に音が付けられるようになったのは1930年代前後のことよね。
これって、結構、インパクトがあったのよね」

 「そう言われているね。
それまでは俳優が言葉を発するなんていう必要がなかったわけだから。例えば、僕なんかはとても流暢に英語を話すなんてことは出来ない。だけど、言葉なしの映像だけだったら、それなりに演じることが出来れば、映像としては全く問題がないってことになる」

 「まぁ、演技があなたが出来るほどに簡単だとはさらさら思わないけど。
それはともかくとしても、ハリウッドにも米国人以外の俳優がいたし、米国人の中でも言葉にインパクトが無かった人などがいた。そういう俳優さん達は大変」

 「そこで新旧交代なんてことが起きたんだね。
ただね、例えばチャップリンは無声映画の時代のスター。
チャップリンは、トーキーが始まった1928年に敢えて『サーカス』という無声映画を撮影している。トーキーが出てきたときになんだ。
それもね、頑固にというような感じではなくて、芸術性の高い作品なんだ。トーキーじゃなくても、これだけのものが出来るんですよとね。
続く、1931年の『街の灯』ではせりふは一切ないかわりに音楽を添えている。せりふはないんだけど、観客はトーキーではないんだというようなことは感じなかったんだというよ。そこがチャップリンの凄いとこ」

 「1936年の『モダン・タイムズ』では流石(さすが)のチャップリンもトーキー化したわよね」

 「でもね、チャップリン自身のせりふの部分は無声だったわけだ。
チャップリンの演技の基本というか源泉はパントマイムにあったからね。
その源流、つまり自分の特性をチャップリン自身は十分に知っていたんだね、きっと。その自分の特性とトーキーという時代の流れを上手いこと両方成り立たせることに成功していたなんていうことが出来るんじゃないかな」

 「だから、せりふが入っている1940年の『チャップリンの独裁者』でもせりふが最小限に抑えられているのね」

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