部分最適からの脱却
「事業部が肥大化して、事業部ごとの部分最適を中心に考えるようになり、全体最適ではなくなってきた」
1990年代から2000年代半ばまでキヤノンを率いた御手洗富士夫社長の言葉。
御手洗社長は事業部毎の部分最適を無くす方策としてキャッシュフロー経営を導入。事業部毎にキャッシュフローを計算。キャッシュフローを軸として撤退事業の選別を行った。
御手洗富士夫は大分県蒲江町の出身でキヤノン創業者御手洗毅(1901-1984)の甥。キヤノンカメラ(現キヤノン)を皮切りに、キヤノンUSAでの社長を経て、1995年に毅の子の御手洗肇(1938-1995)の急逝の跡を引き継いだ。
出典
日経新聞社編[2004]『キヤノン式−高収益を生み出す和魂洋才経営』日本経済新聞社
※キヤノンの前身の精機工学研究所は吉田五郎、吉田の妹婿の内田三郎(1899-1982)が創設。産婦人科医だった御手洗毅は内田夫人の出産を通じて知己を得、共同経営者となった。初代社長としてGHQ(Go Home Quickly)の標語のもと、実力主義と家族主義を掲げ、1959年の完全週休2日制導入などを実行に移した。
社長の座は、創業者のうちだの部下だった前田武男(1909-1977)、経理部から企画部を経た賀来龍三郎が引き継ぐ。賀来龍三郎は1988年に「第二の創業」を宣言し、世界人類との共生のもとで、真のグローバル企業を目指すことを説いた。
1977年から1989年までの12年間の社長就任期間中に、連結売上高は1954億円から1兆3509億円へと躍進。中興の祖とされる。
賀来の跡を継いだのは山路敬三。そして、賀来の後押しによる大政奉還によって創業家に経営が引き継がれた。