鮎川義介の軌跡

■1910年:アメリカでの職工時代に出遭った黒心可鍛鋳鉄の技術の企業化を目指して戸畑鋳物株式会社を設立。井上馨の支援と、貝島太助、藤田小太郎等の出資を得ている。
戸畑鋳物は販路開拓に苦しむ。しかし、親族の支えによって耐える。
■第一次世界大戦時:輸入途絶により戸畑鋳物の販路が開ける。鮎川は利益を内部留保とし戦後不況に備え。
■1921年:電気炉を導入。継手製品、ロール鋳造品、発動機の製造に着手。
やがて継手製品で輸入品を駆逐。昭和初年には三井物産を介して鉄鋼製品で日本初の欧米進出。

戸畑鋳物株式会社の経営に際して共立企業という持ち株会社を設立していた。
共立企業によって、安来製鋼所(特殊鋼)、東亜電機(電装品)、不二塗料(塗料)などの自動車関連製品を製造する企業をも経営。
フォード、GMの日本向けノックダウン工場に製品供給。
■1931年:戸畑鋳物自動車部新設。

■1928年:義弟久原房之助が率い、破綻していた久原財閥の経営を引き継ぐ。
公開持株会社日本産業のもとに日産コンツェルンを設立。
コンツェルン経営には福岡の炭鉱王貝島家の再建を手がけた経験が役立った。
■1931年:金輸出再禁止の景気回復時に、傘下の日本鉱業、日立製作所の株式を公開。多額の株式売却益を得る。
■1933年:売却益によって、日本産業と戸畑鋳物共同出資によって自動車製造(株)を設立。これが現在の日産自動車となっている。

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