[将門塚]
 天慶の乱によって中央に反旗を翻し関東に独立政権を打ちたてようとした平将門公が朝廷の派遣した俵藤太に討伐され、その首は京都三条河原に晒されたものの、天を舞い空を飛んで、遠く芝崎の地に至ったと伝えられている。
 その将門公の首級が降り立ったのが神田明神の地であるとして言い伝えらる。
 その後、1307年に真教上人が塚を建造し、さらに延慶2(1309)年に将門公の霊をも相殿に祀るようになり、改めて神田明神と名付けられた。
 それから長い間、江戸の鎮守として鎮座していましたが、天正18(1590)年に徳川家康による大規模な城下の造成工事が開始され、元和2(1616)年に江戸城の鬼門の守護神となり移転された後は首塚がこの地に残されることとなった。
 明治維新後、天皇が江戸(東京)の鎮守としての神田明神に参拝する際に、神田明神の主祭神が朝敵平将門では宜しくないとの理由によって、将門公は昭和59(1984)年まで主祭神の座を追われることになる。
 この間、様々な災いが起こったとされている。
 例えば、関東大震災後、大蔵省が大手町に仮庁舎を建てた時、「将門塚」をぞんざいに扱った祟りで、時の大蔵大臣早速整爾以下、関係者十名が次々と急死し、武田政務次官らが怪我を負ったと伝えられる。また、終戦後、GHQが「首塚」を撤去しようとしたが、ブルドーザーが横転して死傷者が出るなど怪奇現象が続発し、遂に、撤去を断念した伝説もある。
 なお、首塚の前には大きな池があったとされているが、この池は埋め立てられたものの、その一部が三井物産ビルの「カルガモ池」に名残を留めている。

 
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