[立川基地跡地] 防災都市としての再開発が進んでいる旧米軍立川基地。 かつては、日本軍の立川飛行場があり、この写真の向こう側には現在も(株)立飛がある。また、基地の跡地のほぼ中央には南北道路が貫き、西側には米軍立川基地を引き継いだ陸上自衛隊の立川駐屯地や国立昭和記念公園があり、多摩都市モノレールも跡地を横切っている。 かつては、道路の標識に米軍時代のものが残っていたりしたが、それも今は昔。「おばけ煙突」や「旧将校クラブ」も撤去され、かつての軍都を偲ぶものは名物の「飛行最中」ぐらいだろうか。 |
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[砂川事件] 米軍占領期から続いた旧日本軍基地の米軍継続使用は講和条約の発効以後に住民による反対闘争を巻き起こした。 その契機となったのは、無期限継続使用を断念させるに至った1952-53年の内灘闘争であるが、その後、反対闘争は53年浅間山基地化反対闘争、55年妙義山接収計画反対闘争(いづれも計画断念)へと続いた。 その中でも激烈を極めたのが、1955年から1957年にわたって繰り広げられた「砂川闘争」である。 事の起こりは、米軍が1954(昭和29)年に立川飛行場の拡張を要請し鳩山内閣が了承し測量を開始したことにある。 当時の東京都北多摩郡砂川町(後に立川市と合併)議会が反対決議を行い、測量反対闘争が開始された。1956年10月には警官隊と住民との全面対決により1000名を越す負傷者を出し、砂川の地は住民の血で染まった。世論も砂川住民を支持したため、中央政府は測量を中断。 57年7月に測量を再開した直後、基地に侵入したとして7名を刑事特別法違反で起訴した。 東京地裁は米軍駐留を違憲とし7名に無罪判決を下したが、検察側が跳躍上告を行い最高裁判所は憲法判断を回避し原判決を破棄差戻しとし、63年には被告全員に有罪判決を下した。 しかし、結局は米軍は基地拡張を断念し、その後基地自体も返還。長い間、砂川の地に翻っていた闘争の赤旗も降ろされ、現在では急速に再開発が進んでいる。 |
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[最判昭37.3.7(砂川事件最高裁判決)] 日米安保条約について、「国の存立に極めて重大な関係を持つ高度の政治性」を持っており、その内容が違憲となるかどうかの法的判断は行政府の「高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点が少なくな」いために、「一見明白に違憲無効」と認められない限りは司法審査の範囲外にあるとの判断を下した。 「日本国憲法の下において『統治行為』は認められるか? |
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