[姫路城] 1346(貞和2)年に赤松貞範が初めて築城したと伝えられ、その後の幾多の改築を経て現代にその雄姿を残す名城。 その源は、貞範の父で足利高氏の開幕を助け播磨守護の地位を得た守護職則村が1333(元弘3)年に築いた砦に求めることが出来る。 赤松氏の後に、赤松氏家臣小寺氏(赤松一族)が居城とし、1545(天文14)年には小寺氏の家老である黒田重隆が入城した。重隆の後は孫の孝高(秀吉家臣)が城主となるが、1580(天正8)年に羽柴秀吉が織田信長の命令によって西国攻略の拠点として入城し、三層の天守閣を築くに至った。 城が現在のような本格的な大城郭としての形を整えるのは、徳川家康の婿である池田輝政が大阪城の豊臣秀頼への抑えとして、三河吉田15万石から移封されて以降になる。同時に子である忠継、忠雄に備前および淡路の所領が与えられ、池田家は姫路宰相百万石と称された。 その宰相百万石としての地位に相応しい居城として、1601(慶長6)年から8年もの歳月を掛けて5層7階の天守を造営した。 池田氏は輝政の後、利隆、光政と三代にわたって姫路を守り、光政が因幡鳥取に転封になると、本多忠政が西の丸化粧櫓を整備し、1618(元和4)年ごろには写真のような姿になったという。 |
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[千姫] 1603(慶長8)年に豊臣秀頼に嫁し、大阪落城の際に坂崎出羽守成正(浮田直盛,?-1616)に救出された二代将軍徳川秀忠の子千姫(1597慶長2-1666寛文6)が1616(元和2)年に姫路城主本多忠刻と再婚し忠刻と死別するまでここに住んだ。 |
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(撮影:2000年8月) 兵庫県姫路市本町68 |
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