[坂下門]
皇居の通用門としての役割を担っている坂下門は幕末の坂下門外の変と呼ばれる事件の舞台として歴史上に知られる門である。
この事件は坂下門前の屋敷から登城途中の老中安藤信正(対馬守、磐城平藩5万石、文政2[1819]年−明治4[1871]年)が水戸浪士に襲撃されたというものである。
事は少し遡る。万延元年(1860)に安藤対馬守は老中に任命され外国事務を担当することとなる。
時まさに開国論、攘夷論渦巻く中、大老井伊直弼が日米通商条約の調印や攘夷派の弾圧、公武合体を強硬に推進していたころである。
そして、井伊大老は桜田門外の変で攘夷派によって討ち取られる。
この桜田門外の変の事態の収拾を図ったのが安藤対馬守である。
その後、安藤対馬守は老中首座の久世広周と公武合体を推進していく。
久世広周(旗本大草高好二男、久世広運養嗣子、関宿藩、5万8千石)は、井伊大老の通商条約締結や13代将軍家定の継嗣問題に反対し、罷免されたものの返り咲いて再度老中となったという人物である。
反井伊派の久世と井伊派の安藤は、変後の混乱の中で事態を上手く収拾していく。
それだけではなく、ヒュースケン暗殺事件やロシア艦隊の対馬占領事件など次々と巻き起こる外交問題処理にも奔走する。
このような幕政の混乱期に一人の男の思想が幕閣を突き動かす。
その男を長井雅楽という一介の長州藩士である。
開国、攘夷二分論が支配するなか、両断することなく、公武一体化し積極的に開国の上、外に打って出るべしという論は新鮮であった。
安藤と久世はこの航海遠略策を入れ、公武合体政策を推進し皇妹和宮の将軍家茂への降嫁を実現させる。
文久2年(1862)1月15日、しかし、これに怒った攘夷派の平山平介ら水戸浪士が西丸下の邸をでて坂下門に向かう対馬守を襲撃。
対馬守は門内に逃げ延び一命を取り留めるも、既に時流は安藤信正には味方せず4月に辞任。
ここに至って、安藤・久世連立政権は崩壊し、久世広周も6月2をもって辞任。
追い討ちをかけるように、久世は在職中の不正を追及され、1万石没収のうえ隠居・謹慎を命じられ、更には井伊大老の死を病死と偽った罪により永蟄居となった。
完全な失脚である。
坂下門外の変の余波は更に続く。
1863年、航海遠略策を唱えた長井雅楽が切腹する。
薩摩藩の幕政改革案を朝廷が受け入れたことと、同じ長州藩内の久坂玄端を中心とした尊皇攘夷派の非難を受け朝廷非難の責任を負ったのである。
人ノ子孫タル者上下トナク其志ヲ継キ事ヲ述ルヲ以テ考ト仕リ候
長州藩直目付 長井雅楽
坂下門は黙して何も語らない。
しかし、そこには間違いなく近代日本の痛ましいほどの胎動が刻まれているのである。
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