[足利義詮]
 「室町幕府の二代目将軍。二代目というのは初代に比べて目立たないというのが相場。義詮の場合も例外ではないね。
でも、父親である尊氏とともに活躍した」
 「室町幕府が幕府として安定したものとなるのは子供である第3代義満の時からだから、人生のほとんどを戦場で過ごした苦労人でもある。
しかも、義詮は正慶2・元弘3(1333)年に挙兵した後醍醐帝軍に対する鎌倉幕府防衛のために京都に攻め上る尊氏のいわば人質として鎌倉の地に留め置かれたという経験を持っている」
 「ちなみに、義詮の母親は得宗家に連なる北条氏の赤橋流久時の娘登子。赤橋氏は執権も出している家柄。鎌倉幕府の与党中の与党。加えて、足利氏といえば、源氏であり源氏の嫡流である頼朝の血が途絶えて久しい時代にあっては当然に源氏嫡流の地位を覗う立場にあった。幕府を守る立場と幕府に取って代わる立場とを生まれながらに併せ持っていたという運命の持ち主とも言える」
 「母方の伯父の赤橋守時は鎌倉幕府の第16代執権、つまり最期の執権に当たる。そのために、新田勢が鎌倉に攻め込んだ時には叛旗を翻した足利勢との関係を払拭するためもあって壮絶なまでの闘いを行って戦死している」
 「それだけじゃないのよね。
義詮には兄がいたよね。後に尊氏の弟の直義の養子に迎えられる直冬。義詮は鎌倉幕府を支えていた北条家の血を引いていることから嫡男となっているのよね」
 「それがまた悲劇の始まりだったとも言えるね。
貞和5・正平4年叔父足利直義と高師直が対立するに及んで叔父と対立する父の補佐を行うようになる。この時、叔父直義のところには兄である直冬がいたから、兄弟対立は2世代で行われることになる」
 「年齢の長幼で言うなら、直冬が足利の嫡男、当主となって当然。そうした事情も絡んでいたのでしょうね」
 「兄弟の争いに南朝方からの攻勢にもあっていたから安泰とは言えなかった。
延文3・正平13(1358)年に父親の尊氏が亡くなるとその跡を継いで征夷大将軍の地位に就く」
 「そして、南朝方に対する工作を開始し、南朝方の大内弘世や直冬党の山名時氏を帰順させることに成功し幕府安定化の第一歩を踏み出すわけね。
これは父親尊氏でさえ成し遂げることが出来なかったこと」
 「でも、苦労は続くわけだ。
足利氏は施政の本拠地を京都に置いたけど、鎌倉は武士が初めて政権を担った地であり、鎌倉幕府が置かれていた地であり重要であることに変わりが無かった。
義詮も父と叔父が袂を別つまでは鎌倉の地で治世を行っている。
その地には、弟基氏がいた」
 「京都と鎌倉の地は離れているし、当時の武士団の中心であった関東武士団の中には雅な京に本拠を置くことに抵抗した勢力も少なからずあった。
そういうわけで、基氏を棟梁に立てようとする動きは出てくる」
 「そうなっては、またも悲劇。
そうなることを望まなかった弟基氏は自ら命を絶ったとも言われているね」
 「それが兄弟の運命だったのか、義詮も弟の死から一年もしない内にこの世を去っている」
 「人生のほとんどが闘いの連続だったといっても過言じゃないね」