『 文保の和談 』 「始まりは、文永9(1272)年に時の治天の君だった後嵯峨法皇が後継者を定めずに亡くなったことにある。なぜ、後嵯峨法皇が自分の後継者を定めなかったというと、これは鎌倉幕府に委ねるという考えだったって言われている。」 「後々の争いを産まないようにという配慮だったのでしょう。そうはいっても、後継者レースの有力候補は、第3子の後深草上皇と第7子の亀山天皇。このどちらが治天の君となるのか。却って混乱を生じることになる。」 「鎌倉幕府は、中宮大宮院に相談して亀山天皇を治天の君とするんだ。亀山天皇は、これを受けて即座に第2皇子に譲位する。第91代後宇多天皇の誕生だ。」 「面白くないのは、後深草上皇ね。上皇は上皇という尊号を辞退すると申し出る。こうなると大変だわ。そんなのは前代未聞ですもの。」 「慌てた幕府は足して2で割る解決策をとるよね。後深草上皇の皇子を後宇多天皇の皇太子とするわけだ。襷がけ人事だね。こういうのは今でも行われる。」 「だけど、これで天皇家が2つに分かれてしまうのよね。亀山天皇の子孫は後宇多天皇が嵯峨の大覚寺に御所を設けたことから大覚寺統、後深草天皇の血を引くほうは伏見天皇が譲位後に里内裏の持明院殿に居を構えたことから持明院統と呼ばれるようになったよね。」 「この足して2で割る解決策も上手くはいかなかったよね。大覚寺統も持明院統も襷がけに満足していなかったからね。そこで、文保元(1317)年に幕府は中原親鑒(ちかあき)を朝廷に派遣して、幕府は皇位継承の問題に一切介入せず、大覚寺統と持明院統の両統の相談で決めるようにと伝えるんだね。」 「この幕府の通告を受けて、持明院統の第95代花園天皇は大覚寺統に皇位を譲って第95代後醍醐天皇を擁立、その後醍醐天皇の皇太子には大覚寺統の邦良親王、後の第97代村上天皇ね、この人を立てて、その次の皇太子には持明院統の量仁(かずひと)親王、後の光厳天皇を据えることとし、さらに在位は10年と決めたのよね。」 「この和談に不満を持っていたのは自分の子孫に皇位を引き継ぐことの出来ない後醍醐天皇でしょ。この人のこの不満が次の時代への一つの力になっていくね。」 |