[越前国掟]
 織田信長は甲州の憂いを除くと、一向衆徒および国衆による統治が行われていた越前に侵攻し、これを撃破すると加賀南部に続けて侵攻、能美・江沼両郡を手中に収めた。
 この一連の戦いの結果として、越前国から一向衆徒は一掃され、越前は文字通り空と成り果てた。
 空となった越前国を統治するため、信長は方面軍制度とでもいうべき統治制度を敷き、8郡を柴田勝家に、大野郡の2/3を金森長近に、残りを原政茂に、府中二郡を不破光治・佐々成政・前田利家の三人衆に、敦賀郡を武藤舜秀に統治させた。越前国を中心とする織田領北国地域を統轄するためとして柴田勝家を北ノ庄に据え、馬廻り直臣三人衆を柴田勝家に対する目付として府中城に配置した。
 こうした任命の上で、信長は越前の従前の支配者である朝倉家体制を一掃すべく、「越前国掟」を発した。

[1] 国中へ非分の課役申し懸くべからず、但し差し当たる子細ありて申し付くべきに於ては、我々に相尋ぬべし、其に随い申し出ずべき事、
 平定したばかりの越前の国の国民に対して、段銭・棟別銭・兵糧米などの「課役」を故なく課してはならないということを定める。武力によって一時期は平定することが出来るとしても、その後の長く続く民政においては国民に配慮しなければならないということを心得た内容と言える。
[2] 国に立て置き候諸侍を雅意に扱うべからず、いかにも悃にして然るべく候、さ候とて帯紐を解き候ようには有ましく候、要害は彼此機遣簡要に候、領知方厳重に相渡すべき事、
これも、同じく、越前の国の中核をなす地侍層に十分配慮すべき旨を規定している。古くから、その土地に土着している階層をうまく統治機構に取り込むことをしなかったら、容易に体制が崩れ去ってしまうことは、後の佐々成政の肥後統治の例もある。
[3] 公事篇の儀、順路の憲法たるべし、努々贔屓偏頗を存ぜず、裁許すべし、若し又、双方存分休まざるにおゐては、雑掌を以って我々に相尋ね、落着すべきの事、
公事、すなわち訴訟に関する規定。織田信長の制定した法によって裁判を行うことと、最高裁判所は信長であるということを規定。
[4] 京家領の儀、乱已前に当知行に於ては還付すべし、朱印次第たるべき事、但し理りこれ在り、
公家層の土地所有権に関する規定。第1に信長の朱印状の有無により、次に、一向宗の乱以前の現実の知行に配慮するとする。
[5] 分国いづれも諸関停止の上は、当国も同前たるべき事、
関所の廃止を規定する画期的な規定が越前国にも適用する旨の規定。
[6] 大国を預け置くの条、万端に付きて機遣い、油断有りては曲事に候、第一武篇簡要に候、武具・兵粮嗜み候て、五年も十年も慥に拘うべき分別勿論に候、所詮欲を去り、執るべき物を申し付け、所務候様に覚悟をなすべく候、子共寵愛せしめ、手猿楽・遊興・見物等は停止すべき事、
これは、分国法としての性格というよりは、信長の柴田勝家に対する教訓状といえる。
[7] 鷹をつかうべからず、但し足場をも見るべきためには然るべく候、さも候はずば無用に候、子共の儀は子細あるべからず候の事、
鷹狩を禁止するという、これも第6条と同様、勝家に対する訓示。
[8] 領中の員数に寄るべく候と雖も、ニ・三ヶ所も給人を付けず、是は忠節の輩それゞゝに随って扶助すべき地に候由申し、拘え置くべく候、武篇を励み候ても、恩賞すべき所領之れ無しと諸人見及び候は、ゞげには勇も忠儀も浅かるべきの条、基分別尤に候、給人を付けず候間は、蔵納たるべき事、
将来の恩賞に備えて直轄領を置くことを規定している。この直轄領に知行人を付けない場合には信長直轄領とするそうに定めている。
[9] 事新しき子細候と雖も、何事に於ても信長申し次第に覚悟肝要に候、さ候とて無理・非法の儀を心におもひながら巧言を申し出すべからず候、其段も何とぞかまひ之れ有らば、理に及ぶべし、聞き届けそれに随うべく候、とにもかくにも我々を崇敬候て、影後にてもあだにおもうべからず、我々あるかたへは、足をもささざるように心もち簡要に候、其分に候へば、侍の冥加有りて長久たるべく候、分別専用の事、     天正三年九月 日

 以上が「越前国掟」。織田信長の治世における法制の一端を見ることの出来る貴重な資料と言える。