『 藤原種継暗殺事件 』 「遷都というのは何時の世でもいろいろな問題を含んでいるね。京都は千年の都と言われているけど、その京の都への遷都を断行した桓武天皇もスームーズには事を運べなかったね。平安京の前の長岡京造営遷都の時点でも大和から遷都するにあたって、その後の平安京の性格を規定したともいえる事件が起きているね」 「造営を任された藤原種継の暗殺ね。藤原種継は藤原の式家宇合の孫、清成の子。その彼が、『続紀薨伝』によると、延暦3(784)年1月、丁度中納言に任命されたころに山背国乙訓郡長岡村への首都の移転、つまり長岡京遷都を建議して、一気に遷都を推し進めたわけね」 「長岡の地の近くには百済王氏の本拠地の交野があるよね。このために、桓武の百済王系氏族である母の高野新笠との関係がよく言われる。天智系はそもそも百済系なんだけどね。壬申の乱で勝利を納めた天武系は新羅系だ」 「それは正史から離なれる議論だから次の機会にしましょう。ともかく、この長岡遷都が決まった後に、反遷都派の反撃が始まるのね。なんと言っても、旧都には仏教勢力があったからね、彼らにしてみれば遷都なんてもってのほかになるわよね。で、事件は延暦4年9月23日に起こるべきして起きた」 「仕事熱心な藤原種継が深夜に長岡宮造営の見回りをしている時に暗殺されたんだね。すぐさま、大伴竹良らが捕えられる。そして、吟味の結果、なんと首謀者として軍事貴族の長老で既に死亡していた大伴家持が首謀者の一人であったことが判明する」 「それだけなら、大伴一族が失脚するだけで済んだのだろうけど、この事件は思わぬ方向へと繋がっていく。さらに、同じく有力貴族の佐伯氏が関与していただけではなく、なんと桓武天皇の皇太子である早良親王が関与していたことが発覚」 「本当に早良親王が種継暗殺事件に関与していたのかは疑問とされるよね。桓武天皇は最初こそ父親の光仁天皇の遺言に従って早良親王を皇太子に立てたけど、自分の長男の安殿親王が成長するに従って、やはり自分の子に皇位を継がせたいと願うようになったとされるからね。この構図は壬申の乱にそっくりだ。違いは桓武天皇が生前に手を打って自分の子への皇位継承を実行したことだね。こうしたことの証左として、この種継暗殺の後に安殿親王を皇太子にしている」 「早良親王を淡路に配流した後でね。この事件では、大伴継人、大伴真麻呂、大伴竹良、大伴湊麻呂、佐伯高成、そして春宮主書首の多治比浜人が主犯として斬刑に処せられているわ。右兵衛督五百枝王は伊予国流罪、大蔵卿藤原雄依、春宮亮紀白麻呂と右京亮永主は隠岐へ流され、東宮学士の林忌寸稲麻呂は伊豆への流罪となっている。かなりの規模の処分が行われたことになるわね」 「そして、早良親王は無罪を叫びながら、淡路への移送途中で、淀川にかかる河内国高瀬橋で無念の死を遂げるわけだ。さすがに桓武天皇は弟の早良親王を殺そうとまでは思っていなかったとみえて、この早良親王の絶命に心を悩ませることになる。さらには、早良親王(旱天上帝)の怨霊に悩まされつづけることになる。このために、長岡京の後に遷都した平安京の造営に当たっては怨霊を鎮めることに大いに配慮することになるんだね」 |