[後南朝]
 三種の神器を保持していた南朝の後亀山天皇は、「明徳和約」(北朝明徳3・南朝元中9(1392)年)により、天皇位を北朝側の後小松天皇に譲位。

 これによって、約60年間にわたって続いた南北朝は終わり、南北の円満な和解が成立したかに見えた。この「和約」では、合一後の天皇位は後小松帝とするも、その後は旧南朝の後亀山上皇の皇子小倉宮実仁親王とし、それ以降は「両統迭立」とされた。

 しかし、足利義満に支えられた旧北朝の勢力に旧南朝は次第に押され、後亀山法皇と小倉宮実仁親王は応永17(1410)年に再び南朝所縁の地である吉野へ逃れる。いわゆる後南朝が開始される。

 この後南朝は、後亀山天皇、良泰親王(初代、第3代)、天基天皇(第2代、後亀山法皇の孫良康親王の子、義仁親王)、泰仁親王(良泰親王の子、第4代)、中興帝(第5代、小倉宮実仁親王の子、尊義親王[三之公(川上村)在住、万寿寺宮、兄宮自帝[上北山村]と弟宮忠義王[神之谷、兄宮暗殺後も奥地に匿われる]の父)、自帝(第6代、尊秀王、赤松氏により暗殺)、興福帝(第7代、尊雅親王)、西陣南帝(第8代、小倉宮第四皇子、信雅親王、-1514)と続きます。

 後南朝最後の西陣南帝は、その名に京都の西陣の地名が冠せられている。

 これは、文明3(1471)年に応仁の乱を戦っていた西国の覇者、山名宗全が宿敵・細川勝元に対抗する為に後南朝側に帰順し、帝を実妹が住む西陣安山院に迎えたことに由来する。なお、西陣南帝は謎多きその後の人生を歩むことになる。

 諸説があるものの、一説には、北朝文明9・後南朝明応9(1477)年に応仁の乱が幕を下ろすと、西陣南帝は帝としての身分を隠して、東海道を甲州を経て奥州へと流浪し、名前も母方が武田支族八代熊沢家の出身であったことから、熊沢現覚坊と名乗って、最後には尾張一ノ宮にて生涯を終えたとされています。