[律令制の転機へ(平安時代前期)]

 大化の改新から源 頼朝を首班と仰ぐ関東武士勢力による鎌倉幕府創設までの400年に及ぶ「中国大陸法継受法時代」と位置づけられる(滝川政次郎)。
 その「中国大陸法継受法時代」のうちでも、延喜・天暦に至るまでの時代は純粋なる「中国大陸法継受法時代」といえる。
 この大陸から継受した律令体制が明確なる転機を迎えていた延喜・天暦期は醍醐帝、朱雀帝、村上帝の治下にあったが、その間には西国では藤原純友の叛乱(939)が、そして東国では平 将門による大反乱(940)が起こり(天慶の大乱)、律令体制の綻びが中央から任命された受領と地方の有力者層との間の争いという形をとって、一気に噴出している。
 このような受領層と地方有力者層との抗争は、天慶の大乱の以前にも、天安7(857)年の対馬国県郡主擬主帳卜部川知麻呂、下県郡擬大領直浦主らが率いる300余人が対馬国守(くにのかみ)立野正岑を襲撃し惨殺した事件や讃岐国の百姓が讃岐国守(くにのかみ)弘宗王の暴政を告訴した事件などがある。しかし、これらは、いづれも組織的な大きな叛乱へとは繋がることはなかった。とはいえ、延喜・天暦期の前の文徳期において既に嵯峨親政3代の栄華は土台が揺らぎ始めていたといえる。
 その意味で、嵯峨帝に始まり淳和帝、仁明帝と伝わるいわゆる嵯峨親政3代は、平安時代において最も実り多き安定した時代といえる。
 そして、この安定の多くは光仁・桓武父子による施政が実を結んだものである。
律令の編纂は8世紀の前半には既に行われなくなっていたが、その代わりに多くの格と式が公布された。
 大化の改新で公有とされた土地は、その後の実情を鑑みて墾田の私有化が公認され(天平15[743])、こうした実情にあった先例が徐々に定着しつつあった。
 天武系の称徳帝と弓削道鏡による政権の混乱の排除から着手した、天智系の光仁・桓武父子は蝦夷勢力攻略に力を注ぐ一方で、法典編纂事業にも取り組んでいく。
 これらの法典は新たに編纂したのではなく、天平以来の個別の格、式を集大成するものであり、中納言石川年足が編纂したものの施行されることのなかった別式20巻(天平宝宇3[759])の流れを汲むものである。
 こうして、桓武帝の意を受けた民部卿和気清麻呂は『民部省例20巻』を編纂したのに続いて、藤原内麻呂と菅原真道が格と式の編纂に着手したが桓武帝はその完成を目にすることはなかった。
 この先例の集大成という一大事業を嵯峨帝は引き継ぎ、藤原冬嗣(内麻呂の子)、藤原葛野麻呂、秋篠安人による編纂事業が開始される。まず、格10巻、式40巻が弘仁11(820)年に編纂を終え検討を経て天長7(830)年に遂に『弘仁格』と『弘仁式』として完成する。
 さらに、『弘仁儀式』と呼ばれる宮中の諸儀式に関する先例が纏められ、加えて藤原冬嗣の手による『内裏式』3巻(弘仁12[821])が編まれる。
 ここに『弘仁格』と『弘仁式』、『弘仁儀式』と『内裏式』という嵯峨帝以後の親政3代を支える法典集大成事業が完成するのである。
 格と式が法典化されていく中にあっても、国家の基本法典は「大宝令」を改訂した「養老令」であった。このように長い期間にわたって「養老令」を施行している間で、その各条文に対する明法家(法律専門家)による解釈が百家争鳴の様相を呈していた。
 そこで、淳和帝は明法博士額田今足の献策によって、明法家を一同に集め『令義解(りょうのぎげ)』(全10巻)を完成させる。承和元(834)年のことであり、淳和帝は譲位し治世は仁明帝へと引き継がれていた。
 仁明帝の治世は、北畠親房の『神皇正統記』を引くまでもなく、律令制の最高潮であったと考えられている。太政大臣藤原良房は右大臣藤原良相と諮って弘仁11(820)年から867年に至るまでの格・式を大江音人と菅原是善に命じて『貞観格式』として格を869年、式を871年に公布したのをはじめ、876年に『新定内外官交替式』を撰したうえに、貞観17(875)年には検非違使の規定である『左右検非違使式』を制定している。しかし、この検非違使庁こそは、平安中期以降は勢力を拡大し律令を骨抜きにして、それに代わる判例法を確立していく中心である。つまりは、この時期をもって、律令は頂点に達すると同時に大きな矛盾を抱え込むことになる。そして、『延喜式』の編纂を最後として、天慶の乱以後は格式の編纂は行われなくなることによって、固有法復活の時代へと入っていく。
794(延暦3)年〜1192(承久3) 「平安時代」
[前期]〜醍醐帝期 [中期]〜後三条帝期 [後期]院政期
794 日本、首都を平安京に遷都する。
800 フランク王国カール大帝がローマ皇帝の戴冠を受ける。
866 藤原良房が初めて摂政となる。
962 神聖ローマ帝国が成立する。
979 宋(960〜1279)が、中国を統一する。
1018 藤原道長の娘3人が立后し、藤原氏が全盛期を謳歌する。
1086 白河上皇が院政を開始する。
1096 第1回十字軍が開始される。
1156 [保元元]保元の乱によって、武士が台頭する。
1159 [平治元]平治の乱。