[保元の乱]
「武家政権が樹立される道への禁断の扉を開いたのは保元元(1156)年の保元の乱かしらね。」
「藤原道長・頼道親子のときが藤原摂関政治のピークでしょ、その頼道が1074年にこの世を去ると藤原氏の権勢に陰りが出てくる。
とはいっても、直ぐに武家が権勢の中心に踊り出たわけではないね。」
「摂関家に抑え込まれていた皇室の盛り返しが画策される。
皇室の盛り返しは、時の白河天皇が善仁親王に譲位し堀河天皇として即位させ、摂関家に代わって院政を敷くことから開始されるわ。」
「堀河天皇の跡には宗仁親王を鳥羽天皇として、その鳥羽天皇の後には崇徳天皇をと次々と天皇の首を挿げ替えていくね。
これは、院政を敷いている白河上皇にとってはいいけれども、鳥羽上皇は堪ったものではないよね。」
「堀河天皇は早く亡くなったから、不満が鬱積するのは鳥羽上皇ということになるわけね。
ところが、院政を始めた白河上皇の命も永遠では有りえない。
この白河上皇が1129年に亡くなると、今度は煮え湯を飲まされていた鳥羽上皇が白河上皇に代わって院政を敷く。」
「鳥羽上皇は白河上皇がしたのと同じように、崇徳天皇を退位させて近衛天皇を即位させる。
こうなると、今度は崇徳天皇がやるせない。」
「その近衛天皇が早逝する。
困ったことに、近衛天皇には子供がいない。というわけで、崇徳上皇の子と鳥羽上皇の鳥羽上皇皇后の美福門院得子のもとで養育されていた守仁親王が候補に上がるわけよね。」
「なんだかごちゃごちゃしてきたね。
崇徳上皇は鳥羽上皇と待賢門院璋子との皇子で、亡くなった近衛帝は同じく鳥羽上皇と美福門院得子との間の皇子でしょ。」
「そうね。
で、その美福門院得子のもとで養育されていた守仁親王というのは崇徳上皇と母を同じくする兄弟の子ね。」
「その崇徳上皇の同母弟の子というのがミソだね。
なんで崇徳上皇の同母弟の子なの?
崇徳上皇の同母弟が生きてるのに!
そんなのあり?っていうことになる。」
「というわけで、光が当たっていなかった崇徳上皇の同母弟が急遽登板を命じられるってことになるのよね。
そのラッキーな皇子を雅仁というわね。
自分が帝位に就くなんて夢にも考えていなかったし、周囲もそう思っていた。
ところが、奔放な生活を送っていた雅仁親王が息子の守仁親王の中継ぎとして帝位に就くことになる。」
「むっとくるのは、崇徳上皇。なんで、自分の子供の重仁親王じゃなくて、馬鹿な弟の雅仁なんだってね。しかも、雅仁の後はその息子の守仁が皇太子となっている。
でもさ、この雅仁こそが今では知らぬ人もいないというほど時代を動かした後白河帝なんだよね。」
「噴飯やるかたない崇徳上皇が保元の乱の引き金を引いていくわけだけど、そこにもう一つの重大なファクターが絡んでくるわね。」
「あぁ、叔父子問題ね。『古事談』に出てくる。
確証はないとされるけどね。
崇徳上皇は鳥羽上皇の子供ではなくて、鳥羽上皇の祖父の白河上皇の子だってやつね。 これは当時は公然の秘密だったらしく、鳥羽上皇は崇徳上皇を叔父子、叔父子って呼んでいたと言われる。」
「だから、鳥羽上皇は崇徳上皇のラインを外したかったって考えることも出来るわね。
骨肉の争いは凄まじい限り。
皇室の骨肉に摂関家の骨肉の争いが火に油を注ぐように加わるわね。」
「忠通と頼長の藤原兄弟の争いね。
家督を継いだのは忠通で近衛天皇の関白になるけど、父親の忠実は次男の頼長を後継者と考えていて、1150年には頼長を氏長者の地位に就ける。」
「そして、忠通は後白河天皇と結びついて地位を確固たるものにしたのに対して、頼長は些細なことから鳥羽上皇の信頼を失い、好対照な道を歩むわね。」
「そして、今夜のその時を迎えます。」
「それって違う。」
「失敬、失敬。鳥羽上皇は死を目前にして自分の死後に後白河帝の立場が危うくなることを見越して、検非違使に綸旨を下して兵力を結集。
その予想通り、1156年に鳥羽上皇が亡くなると、崇徳上皇が勢力を確保するために兵力を結集し始める。集まった兵力は頼長に連なる源為義とその子源頼賢そして源為朝、平忠正とその子、平長盛らを中心ともの。」
「後白河天皇側についたのは源義朝や平清盛よね。
皇室も藤原家も肉親で争ったけど、武家である平氏も源氏も源為義は源義朝の父、為朝は弟、平忠正は平清盛の叔父というように骨肉の争いになったのね。
結果は、武士の習いに反して奇襲を行った後白河側ね。」
「崇徳側は奇襲を受けたために頼長は戦死。
態勢はがたがたに崩れ、早朝には勝敗が決したと言われている。
源為義・平忠正は死刑、為朝は伊豆大島へ崇徳上皇も讃岐に流罪となって幕が下りたわけだね。」
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