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[壬申の乱] |
「中大兄皇子は大化の改新の後、孝徳帝、斉明帝(皇極帝重祚)と続く間は最高権力者であったにも拘らず、皇位に就こうとはしていないことから、中大兄皇子は皇位継承順位が低かったのではないかという説があるわね。加えて、その後の経緯から、中大兄皇子は実は百済の王族の血を引くのではないかという根強い見方もあるわね」
「それは、663年8月に百済から要請を受けて大軍を派遣したことと密接に関係するね。当時、百済はすでに義慈王が殺されてしまっていて、百済王族は一族毎、唐へ連行され、この難を唯一逃れた百済王族は日本にいた豊璋のみだったでしょ。中大兄皇子は、この豊璋を派遣するんだね」
「ところが、この日本派遣軍は唐・新羅連合軍に大敗する。白村江ね。それから、孝徳・斉明期に中大兄皇子が実権を握っていなかったかというとそうではないでしょ。つまり、653年には孝徳帝との間がしっくり行かなくなった中大兄皇子は、皇極や皇后間人皇女を連れて難波京から飛鳥の倭故京に引き揚げてしまっているでしょ。その時、主だった重臣も一緒に倭故京に移っているわよね。それが原因で孝徳帝は翌年に亡くなっているでしょ。この経緯を見ても、当時、中大兄皇子が権力をがっちりと握っていたことは間違いないわね」
「その点についていうと、孝徳帝の皇后の間人皇女は実は中大兄皇子と愛人関係にあったんだ、それが孝徳帝と中大兄皇子の不協和音の本当の原因なんだという考えもあるでしょ。これって、間人皇女ってのは中大兄皇子とは兄妹だから近親相姦になってしまうんだけどね。こういうところからも、中大兄皇子が百済王家の血を引くのではないのかっていう推論が成り立つわけだよね。だけど、確かな証拠は今のところはないし、あくまでも推論だね」
「それはそうね。でも、もう一つの大きな謎があるわ。斉明帝は661年に遠征先の筑紫で亡くなっっているでしょ。白村江の戦いが663年。それから、天智帝の即位が668年。つまり、斉明帝の崩御から天智帝の即位まで7年間の空位があるのね。この間、皇位につかず政務を執り行うという称制を行っていたといわれるけど大きな謎ね」
「その謎多き天智帝だけど、死に際も謎に満ちているね。謎といえば、天智帝時代に皇太弟だった、後の天武帝、大海人皇子も謎が多いよね。これは、また、別の機会にしなかればならないね、何しろテーマが大きすぎる」
「そうね。今日のところは壬申の乱に焦点を絞りましょう。始まりは、天智帝が皇太弟として大海人皇子を立てていたのに、自分の息子の大友皇子を次第に皇位につけようと考え出したことにあるのよね」
「『病床』で天智帝が大海人皇子に譲位を申し出るんだね。だけど、これは非常に危ない展開。大海人皇子の立場からすると、皇位を受け取る意思表示をしたとたんに、謀反の疑いを着せられて一族もろともに屠られる可能性があるわけだ。無闇にわかりましたなんて返事は出来ない。ここは何よりも身の安全を図る必要があると考えて、大海人皇子は申し出を辞退して大津京から去っていくわけだ」
「二心無いことを示すために武器を全て置いてね。その後、671年12月に天智帝は亡くなって、大友皇子が政権を継承する。いわゆる弘文帝ね。でも弘文帝というのは明治になってから追諡されたものだから大友皇子でいくわね。その大友皇子が先帝の陵を造るといって美濃と尾張の民を集めて、しかも武装させているという知らせが吉野に隠棲していた大海人皇子に伝わる」
「大海人皇子はまたもや自分の身に危険が迫ったことを察するのね。なにしろ、自分はかつて皇位継承の最右翼だったのだから、現在、政権を握っている大友皇子にとっては目の上の瘤であることは明々白々。加えて、大津京から飛鳥にかけて朝廷の見張りが設置され,吉野への道を閉ざそうとする動きも伝えられる」
「こうなっては、もはや弁明だけでは無理と悟った大海人皇子は大友皇子と一戦交えることを決断するわけね。山深き吉野から領地がある美濃への脱出を決行し,舎人たちに命じて東国の豪族たちに下知を出すのね。あぁ、東国といっても美濃,尾張,三河あたりね、せいぜい含んでも甲斐,信濃まで」
「そして、高市皇子と合流して,伊勢に入り不破関の近くから大海人皇子が脱出した吉野から不破への道を逆に戻って大和へ、さらに別働隊が琵琶湖東岸を大津京を進撃、7月2日には大友軍が高安城(たかやすのき)に火を放ち、大海人軍を牽制し、4日に乃楽山(ならやま)の戦いで勝敗いずれとも決せず、大伴吹負の尽力でようやく勝利を手にした大海人軍は倉歴(くらふ)の戦い、箸墓(はしはか)の戦い、息長横河(おきながのよこかわ)の戦い、安河(やすのかわ)・栗太(くるもと)の戦いで相次いで大友軍を下し、9日の鳥籠山(とこのやま)の戦いでも勝利を得る」
「そして、22日に最後の瀬田橋決戦が起こるわけね。大友軍は大動員をかけて、迫り来る村国男依率いる大海人軍を迎い討つ。橋の中ほどには仕掛けが仕掛けられていたものの、大分君稚臣に見破られ、これを契機として大友軍は総崩れとなった。大友皇子は山前へ逃れ、大津京を見下ろせる地で自害するわ」
「673年2月には,大海人皇子は飛鳥浄御原宮に入って即位。天武天皇の誕生だね。ちなみに、この天武帝の時代から大王の呼び名が天皇とされたんだね」
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