[小机城]
JR横浜線の小机駅を降りると直ぐに小高い丘を確認できる。これが、「長尾景春の乱」の舞台となった小机城の跡。畑を抜けると閑静な住宅街に至る。住宅街を貫く道はやがて細くなり、線路で遮られる。その手前に小机城への入り口がある。
鎌倉公方足利持氏は犬懸上杉氏憲(禅秀)による「禅秀の乱」を関東管領山内上杉憲基とともに戦い抜き、多摩の南一揆衆の加勢によって勝利を収める。しかし、足利持氏と関東管領山内上杉憲実は対立するに至る。もともと、鎌倉公方は京の室町幕府将軍家からの独立を図り、一方の関東管領上杉家は室町幕府を代理して抑えとしての役割を担っていた。このため、鎌倉公方と関東管領の衝突は制度的に不可避であったとも言える。
永享10(1438)年、足利持氏は山内上杉憲実と覇権を競い、結果として自刃。その子の成氏はやがて父親を継ぎ関東公方となる。衝突の種は蒔かれたのである。果たして、成氏は享徳3(1454)年に憲実を継いだ憲忠を誅殺し戦端を開く。関東武士団は上杉方と公方方に真っ二つに分かれて戦う。戦いは長期にわたり、この戦いで関東の勢力図が変わっていく。しかし、事態は文明8(1476)年に意外な要素を加えることになる。
山内上杉顕定の家宰の職を逃した長尾景春が叛旗を翻したのである。叛乱は、上杉方の支配地域に再び激震をもたらした。
小机城には長尾軍に加わった矢野兵庫助が太田氏に追われた豊島氏残党と小机氏とともに篭城し、甲山(現新羽町亀ノ子橋)に布陣した上杉方の扇谷上杉家宰の太田道灌と対峙。小机城は要害と言われるも落城の憂き目に遭う。後に、この地を治めた後北条家支配下になるも廃城。大永4(1524)年に北条氏尭が城主となり城代の笠原越前守信為によって、再び城として再興。江戸城(現皇居)、玉縄城、榎下城(現旧城寺)と要衝ラインを形成。
北条氏滅亡とともに、4代城主笠原弥次郎平衛重政は徳川家康家臣となり台村に200石の知行を拝領するに至って廃城となった。