[検非違使]

 「律令の時代と武家法を中心とする固有法の時代の橋渡しをしたのが検非違使庁の例と言えるよね。」
 「検非違使というのは律令の中でも特殊で、京都の警察・裁判を管掌した令外官よね。律令体系の外にあって律令の世界を守護する存在。
 検非違使なんて、カブト虫みたいで、なんだか凄い名前だけど、非法・違法を意味する非違を検察するという意味の役職のこと。」
 「『職原抄』によると、『朝家置此職以来、衛府追捕・弾正糾弾・京職訴訟、併帰使庁』って記されている。
 この使庁っていうのが検非違使庁のことだね。
 だから、取締や逮捕から始まって糾弾というから審理や量刑を科すことも行ったことになるね。この他にも、贓贖物の徴収から護衛まで実に様々な任務を担っていったね。」
 「律令の体系では賄いきれない必要だけど雑多な業務の一切を飲み込んでいったっていう形ね。
 当時、日本は既に国家として常備兵力を備えていなかったし、武力というのは穢れだと見なされていたわ。」
 「弾正台という司法機関は審理を担当していたんだけど、追捕は行わなかった。その追捕を担当したのが検非違使になる。
 その検非違使が弾正台の職分を飲み込んでいく。
 それから、確かに多くの職分を吸収して、弘仁11(820)年には犯罪者の贓贖物の徴収も行うようにはなる。だけど、貞観12(870)年の別当宣で贓贖物の徴収を外し、取り締まりの対象を強盗・窃盗・殺害・闘乱・博戯・強姦のみに限定するね。」
 「そうね。
 そして、律外であった検非違使は貞観17(875)年に「左右検非違使式」を撰定することで法的な権限を確立するわ。
 さらに、天暦元(947)年には寛平7(895)年設置の「左右衛門府」内に左右使庁を統合して左庁に一本化する。
 それから、治安の悪化に伴って権力を増し、律令の訴訟法を基礎とする「庁例」と呼ばれる独自の慣習法を形成・発達させるわね。これが武家法にも引き継がれていくことになる。」
 「『弘仁左右衛門府式』によると、検非違使庁の構成は官人、府生、火長という具合になっていて、貞観・延喜式ではこれに佐、尉(じょう)、志(さかん)が加わったわね。
 佐、尉、志、府生、火長ってことになる。」
 「主に実務を担うのは尉だけど、この尉には法律専門家の明法家や武家が任命された。
 ここがミソね。武家というのは穢れと考えられていたからね、穢れをもって穢れを祓う、これが検非違使となるわけだ。」
 「火長と呼ばれる階級は獄直や追捕を行う看督長、検非違使庁の事務を担う案主からなっていたけど、この火長身分と府生以上の身分の差は厳然としていて、前科のある人物や通常では到底役職に就く事のできない人物が宛がわれた。」
 「比較という意味でいうと、幕末の壬生浪士こと新撰組になるかな。
 さらにこの火長身分の下に下部というのが置かれていた。これは検非違使がいわゆる被差別民を統轄していたこととも多いに関係するわね。
 で、武家が任命されたのは尉。」
 「それは11世紀後半くらいからよね。
 それより前あたりまでは、武家は志とまり。武家と言ってはいるけど、正確には武士勢力となっていくような畿内の在地勢力。
 この勢力をいわゆる北面武士がこの勢力を吸収して尉にまで進出する。
 北面の武士っていうのは院を護衛した武力集団だね。
平安も中期以降になると、治安の悪化から積極的に律令外の兵力を雇用するようになる。これが、禁中滝口、院の北面、東宮帯刀だね。」
 「検非違使は、当初は平安京の行政単位である保々を管轄していたけど、平安末期には地方にも治安維持のために検非違使が置かれるようになるわね。
 ただ、検非違使の地方設置によっても治安を回復することは出来ず、結局、地方の開発領主層は自前の武装勢力を形勢していく。
 律令の枠の内外で武家が台頭してくるのね。」
 「武家政権を関東に打ち立てた右大将源頼朝の父親下野守義朝の父、つまり祖父だけど、その祖父の為義は検非違使だったし、清和源氏と並ぶ一方の武家の総本家である桓武平氏の平清盛も検非違使別当の任に当たっているね。」