[金剛山金乗院平間寺(川崎大師)] 真言宗智山派

 

 川崎から京急大師線に乗り換えて川崎大師へいく。
大師線は工場や民家の間を縫っていくように走っている。何年か前に初詣で来た事があるが、そのときは人が多かったためか大師線の車窓の風景は記憶にない。
 平日だったためなのか、駅前には人がほとんどいない。そもそも、この川崎大師まで電車に乗っていた人が少なかった。駅前の横断歩道を渡って、参道の入り口の門のようなものを潜って歩を進める。
 道の両脇の商店には開いているところもあるにはあるが人が入っていない。その分だけ、普段は耳に出来ないだろう商店の人たちの他所向きではない近所付き合いの話声を聞くことができる。とりたたて聞き耳をたてたわけではなくとも聞こえてくる、それらの声は新鮮でもあり大師にいるという気分にさせてくれる。
 二度目であるが、初詣のときは参道の入り口、つまり駅前の横断歩道を渡ったところから大師まで長い長い行列が出来ていた。それが全く進まない。そのペースで詣でることができたならば、それはまた味があるといえる。ところが、この行列はご本尊の前では速度を急速に上げた。何がなにやらとしかいいようがないようなスピードでグイと本尊の前を曲がった。投げた賽銭も当然に出来そこないのカーブとなり、銭形平次よろしく人様の頭をクッションにして賽銭箱に納まっていた。
 今日はそれがなかった。
 ひっそりとしている。これはこれでまたいいものだと思う。見ることが出来なかったところをじっくりと見ることが出来る。
 さて、この川崎大師、正式な名称を金剛山金乗院平間寺、という。
 縁起が伝えられている。
さる崇徳帝の時代に、無実の罪で故郷を追われた平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が流浪のはてに現在の川崎の地に辿り付く。兼乗は漁業で身を立てていたものの生活は豊かとはいえなかったという。しかし、信仰心は人一倍だった。
そんな兼乗の夢枕に立って、
 「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり。已来未(いらいいま)だ有縁の人を得ず。いま、汝速かに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」
と告げた。
 兼乗はお告げに従って網を投げるとお告げのとおり仏像が網に掛かった。その仏像は紛うことなき弘法大師の像であり、兼乗はこれを奉じて供養を怠らなかった。
その後、高野山の尊賢上人がこの地に立ち寄り、兼乗と大師像の話を聞くや兼乗と合力して寺を建立する。この寺こそが、開基は尊賢上人、創建功徳主は平間兼乗とする川崎大師の始まりであり大治3(1128)年のことだった。寺の名は兼乗の姓をとり平間寺(へいげんじ)とする。
 爾来、川崎大師は成田山新勝寺、多摩・高尾山薬王院と並び関東三山として今に至っている。