吉川氏

「吉川氏というのは藤原の南家武智麻呂の第4子である乙麻呂を祖先に持つんだよね」

 「その藤原氏が吉川姓を称したのは、藤原氏の祖である鎌足から数えて18代目の経義のときね」

 「なんで、藤原が吉川なの?地名?」

 「そう地名。経義が駿河国有度郡吉香邑に拠点を持っていたことによるの」

 「吉川っていうのは吉香なんでしょ。もっとも、駿河には藤原為憲流、維清の裔という伝承が多いから本当に藤原流かというと反論もありそうだけど」

 「吉香と書かれることが多かったけど、木河とか金河と書く場合もあって、結局のところ同じなんだけど、南北朝時代あたりから吉川に統一されるようになったのよ」

 「で、なんで中国地方に移ったの?」

 「吉川家はその後、播磨国福井庄の地頭職になるんだけど、これは経義の子友兼 が梶原景時を討った功によるわけ。さらに、孫の経光は承久の乱の功により、経景に安芸国佐東郡の、義景には安芸国山県郡戸谷の地頭職が与えられるの。それで、経高の代になって、寒曳山南方の丘に城を築いて、駿河から移るわけ。それから、代々大朝庄を本拠として安芸の有力国人ね」

 「梶原景時一族が謀反を起し京都に向かった時に駿河の狐ケ崎に討ったってやつね。このときに、吉香小次郎、船越三郎、矢部小次郎、庵原小次郎などの吉香一族が、三十三人の首を討ったんだよね。承久の乱の時は宇治川の戦いだったかな。その時点ではまだ下向していないわけだね」

 「下向するのはその子、経高のとき。安芸大朝新庄に本拠を定めたのよ」

 「でも、吉川ってあちこちにあるよね。岩国の吉川って石見吉川氏じゃなかった?」

 「その通り。吉川家はあちこちに散らばるわ。弟の経盛は播磨へ、経茂は石見(石見国邇摩郡津淵郷地頭)へ、経時は駿河って具合に」

 「毛利元春が嗣いだのは石見吉川経見流だよね」

 「ちょっと複雑ね。毛利元就の室妙玖の実家になるのよ。で、石見吉川経見の室は安芸吉川経秋の女。この経見公が本家吉川氏八代となるわけね。その子孫の興経を継いだわけ。下って6代目ね」

 「この安芸吉川家は石見尼子家と近かった」

 「安芸とは言っても石見に近いからね。吉川元経公が毛利元就の妹と結ばれても大内方には着かない」

 「でも、尼子の郡山城毛利攻めが失敗した時あたりから大内方になるわけだ。とはいえ、固定的ではなく、元経の子興経は、大内氏の月山城攻撃中に再び尼子方になる」

 「そうなると、安芸の毛利元就は危険を感じるわね」

 「そして遂に、興経に不満を持つ吉川経世などに働きかけて興経を隠退に追いやり、元春を養子として送り込む。 最後の止めは、元春が吉川の家を継いで3年後の天文19年の興経暗殺」

 「それが岩国の吉川家。一時は、隠岐・出雲・伯耆・安芸で11万石を領有した」

 「九州征伐従軍中に急逝した元春・元長父子の跡を継いだ元長の弟広家の頃だね」