鎌倉散歩 |
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[二十五坊旧蹟] 鎌倉幕府滅亡の折、新田義貞と最期の執権北条守時が激闘を繰り広げた巨福呂坂切り通しのそばにある。
この辺りは鶴岡八幡宮の裏手であり、八幡宮の僧侶が住む二十五坊と、僧官が住む別当坊があったことで知られる。碑文によれば、実朝の首を手にした公暁はここに身を潜めたという。
関東大乱期に坊(院と改称)数は減り、残った7院に徳川家康が復興した5院を加えて、江戸時代には12院となる。しかし、鎌倉の地が政治の中心であったならばともかく、寒村となっていたこともあり、明治維新後は全ての院が姿を消した。
現在、残念ながら、この地にその痕跡はない。 |
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[荏柄天神] 歴史は古く鎌倉の地に幕府が開かれる前の長治元(1104)年に創建されたという。
源 頼朝によって幕府が開かれると、幕府の鬼門として栄えた。なるほど、大蔵幕府のあった辺りからは、この荏柄天神の鎮座する地は鬼門に当たる。そもそも、幕府の地を選定するに当たって、荏柄天神を鬼門にする位置という指示が頼朝よりなされたとのこと。
昭和4年に立てられた鎌倉町青年團の碑文によると、「荏柄」というのはこの地の古い呼び名とのことらしい。もとは、「江がや」と呼ばれていたのが転訛したという説が触れられている。
享徳4(1455)年に、鎌倉公方足利成氏に対する討伐軍を率いた、室町幕府の上総介範忠が鎌倉に入府する。この時に討幕軍の一翼を担った今川軍の一団が荏柄天神を駿州に移したが、兵乱が収まると元に遷座し現在に至っている。
その後も後北条氏、徳川氏の庇護を受け、鶴岡八幡宮の造営の度に余材を受けて修造したという(碑文)。 |
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[鎌倉宮] 古都鎌倉にあって、この神社は新しい。
明治2(1869)年の創建。
新しいとは言っても、何もないところに創建されたわけではない。元は東光寺という寺が鎌倉時代からあった場所。この東光寺は建武の新政の一翼を担い、後に足利氏によって処刑された後醍醐天皇の第三皇子、征夷大将軍大塔宮護良親王(1308〜1335)の終焉の地でもある。
護良親王は足利軍に破れ鎌倉に配流、足利尊氏の弟直義(ただよし)によって東光寺の土牢に幽閉された。その土牢は現在でも残されている。
その後、建武2(1335)年に北条高時の遺児時行が諏訪頼重に擁立されて鎌倉府を攻める(「中先代の乱」)。直義は鎌倉府を落ちる際に幽閉中の護良親王を淵辺義博に命じて処刑した。 |
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[大蔵幕府旧蹟]
鎌倉開府に先立つ1180年に源 頼朝の屋敷があったところ。幕府を開くと、屋敷がそのまま政庁となり、大蔵幕府と呼ばれた。
今は清泉小学校が立つ。
この小学校のフェンスには、近くの遺跡を紹介する案内板が掲示されていた。否、案内板というより研究発表のようなというべきだろうか。勉強になる。
大蔵幕府は源三代の政庁として機能する。しかし、1225年に北条政子が世を去ると、幕府はここから宇津宮辻に移った。 |
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[筋替橋] 昼に出てきたので、朝食を採っていなかった。そこで、コンビニでパンを買おうと歩く。すると、店の直ぐ前に碑文が立つ。
何でも、この辺りは鎌倉時代の「須地賀江(すじかえ)橋」に相当するという。
「須地賀江(すじかえ)橋」はいわゆる鎌倉十橋の一つとして知られ、1265年3月告知の公認府内商業地の一つ。
ここはまた、名越光時の乱で得宗家に与力した三浦泰村一族が得宗時頼と安達景盛の挑発によって蜂起した宝治合戦(宝治元[1247]年)の折に安達景盛が武力を終結させた地(『吾妻鏡』)としても知られる。
三浦軍と安達軍の戦いが激烈を極めたが、劣勢明らかになると、三浦軍は泰村以下一族郎党が法華堂(現白旗社)で自害し関東の名族三浦氏は滅亡。
なお、三浦介の名跡は支族佐原氏が後北条早雲に滅ぼされた永正13(1516)年まで伝える。 |