『 寛政の改革 』

 「寛政の改革は享保、天保の改革と並ぶ江戸の三大改革として有名だね。松平定信が祖父の徳川吉宗の行った享保の改革を模範として行った改革といえる。」
 「田沼意次が行った各種の改革を全て白紙に戻した改革とも言えるわね。そういう意味でいうと反動的改革とでもいうのかしら。なにしろ、田沼意次が行った幕政の改革というのは、それまでの武家中心の幕政の基本から既に商人中心となっていた社会形態に適合するようなものに転換したものだったでしょ。保守本流の定信からしてみると、これは許しがたい改革だったわけよ。」
 「商業を重要視したために、農村が疲弊したり、そこに『天明の大飢饉』が加わって、それまで好況を呈していた景気が物価の上昇によってインフレ状態になる。さらに、役人と商人との癒着も常態化し、そうしたことに反発した農民たちが一揆や打ち壊しを行うなど社会情勢も混沌としたものになってしまった。」
 「松平定信は、そういう状況下でプリンスとして彗星の如く幕政に登場したわけよ。彼は緩みきった社会をかつての武家中心の質素な社会という原点に戻すために、思い切った引き締め政策を実行に移していく。」
 「1787年には『倹約令』を出して、役所の経費削減だけではなく、庶民の華美な風俗まで取り締る。続いて、89年には御家人や旗本の6年以上経過した借金は免除するという『棄捐令』を公布するね。」
 「『棄捐令』は当然に商人には不人気だったのよね。これに懲りて商人は武士にはお金を貸さなくなったと言われているわ。それから、『倹約令』も役所の経費を減らすというのは大いに結構だけど、庶民の生活風俗まで取り締るっていうのは大きなお世話ってことよね。」
 「それから、90年には『旧里帰農令』を出して、田沼時代の政策によって大量に江戸に流入してきていた人たちを旅費と農業資金を提供して故郷に帰ることを奨励するね。
 さらに、『天明の飢饉』のときに白川藩で実施した穀物を蓄えるという『囲米の制』を幕府として整備したのに加えて、長谷川平蔵の進言によって、浮浪者や無宿人を収容して治安の維持と、職業技術の指導を行う『人足寄場』を設置したりもしているね。」
 「非常時対策としては『囲米制度』のほかに、町の余剰金の七割を積立金とする『七分積金の制』も行っているわ。」
 「結構、いい内容の政策もしているわけだ。だけど、『寛政異学の禁』として知られている、朱子学以外は禁じるというような思想統制もしているね。これは社会の活性を割くものだね。」
 「それに、定信の政策の基本は武家の原点に戻って質素倹約を行うということにあったから、どうしても田沼時代とは比べて引き締めになるのは仕方がないでしょ。これは、色々と不満はあったにせよ、それまでの自由な社会に慣れてしまった民衆にとっては非常に不満なものだった。というわけで、民衆からの批判はもちろんだけど、幕府の内部からの批判も受けて、定信はたったの六年で老中を辞任し、原点に回帰することを目指した改革は半ばで挫折することになるわ。」