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[薬子の乱] |
「薬子は藤原種継の娘だね。藤原縄主と結婚して2男3女を設けて、そのうちの娘が桓武天皇の皇太子である安殿親王のもとに嫁ぐんだね。この当時の慣習として、姑は娘に付いていっていろいろな面倒を見るとされていたんだけど、これが良くなかった。安殿親王は輿入れした娘のほうではなくて、母親の薬子のほうにクラっときてしまった。」
「全く、男って動物は。でも、これは策略でもあるのかもしれないわね。というのも、薬子は藤原種継の娘なわけでしょ。藤原種継といえば長岡京遷都に尽力して、その挙句に暗殺されてしまった人よね。ところが、その父親が精魂込めた長岡京を桓武天皇はさっと諦めて平安京へと遷都してしまったわけよ。当然、種継の死後は父親のバックアップがなくなってしまったわけで苦労を重ねたでしょ、こういう状況では桓武天皇にいい思いを抱くようなことは考えられない。」
「そうした2人の関係は倫理的にも好ましいものではないわけで、父親の桓武天皇は我が子が可愛いのはさることながら、やはりよろしくないと考えて、薬子を追放するわけだ。これは、まぁ父親として当然だ。」
「ところがね、その父親の桓武天皇が亡くなると、すぐに安殿親王改め平城天皇は薬子を呼び戻すわけ。そして、薬子もこれを家の再興に大いに利用する。薬子は尚侍に任命されるわ。」
「これで、平城帝の健康問題がなければ問題は大きくならなかったのかもしれない。でも、同じかな。むしろ、平城帝の健康問題があって皇位を譲ったからこそ問題が早期に表れたというべきかもしれないね。それでも、弟の神野親王、えーと嵯峨天皇だね、彼に譲位した当初は然したる変化はなかったわけだ。」
「譲位は大同4(809)年でしょ。在位期間はたったの3年って計算になるわ。平城帝というと、あまりぱっとはしない印象を受けるけど、参議を観察使に任命して地方に派遣したり、それなりに精力的に政務をこなしていたのね。でも、持病の前には無力だったのね。譲位は薬子も必死に止めたけど、それを振り払って譲位を断行したのよ。」
「兄から譲位された嵯峨帝は、これも当然の成り行きとしてそれまでに増長していた薬子の勢力を削ぐために、新たに蔵人頭を設けて尚侍に代わる権限を持たせるね。これが、いわばトリガーになっていく。」
「病気が平癒した平城上皇が政務に意欲を見せ始めていたところに、自分の築いてきたものを壊している嵯峨帝がいたわけで面白いわけがない。北陸道観察使に任命されていた薬子の兄・藤原仲成を呼び戻して嵯峨帝側を牽制するのね。」
「そして、弘仁元(810)年9月6日に、遂には、何を血迷ったのか上皇は、上皇は平城京遷都の詔を出す。実権を上皇側に取り戻す意向だったんだね。」
「動きは嵯峨帝のほうが一枚上手で早かった。坂上田村麻呂と藤原冬嗣を造平城宮使に任命したと思いきや、10日には藤原仲成を逮捕して佐渡権守に降格させた上処刑。」
「この強行には平城上皇も肝を抜かれた。平城上皇は東国での再起を図ろうとして、薬子と共に平城京の脱出を試みるが、既に平城宮使として平城京にあった坂上田村麻呂によって逮捕拘束される。対照的なのは、その後の愛し合った2人の態度だね。平城上皇は涙ながらに助命を乞い、一方の薬子は自殺をした。」
「これによって、藤原式家は衰退の道を辿り、その一方で藤原冬嗣の藤原北家が勢力を伸ばしていくことになるわ。」
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