[現代警察制度]


[旧檜山爾志郡役所]
江差町字中歌町112
 明治20年に江差奉行所の跡地にロシア人の設計により郡役所として建築。郡制度は明治12(1879)年に道内に導入され、檜山爾志郡役所は檜山郡と爾志郡の2郡を管轄した。郡役所は全国にも25棟しか現存しないという。
 なお、明治20(1887)年建造の同役所は一部が江差警察署庁舎として用いられた。

[旧取調室]
 旧江差警察署内部に残る取調室。


2002年9月16日午前撮影

 「日本の警察制度は明治元(1868)年に江戸に入っていた薩摩藩兵と長州藩兵を治安維持の任務に当たらせたのが始まりよね。」
 「徳川時代には、目付などの政治警察機構と一般警察機構としての奉行所組織があったよね。後者は与力・同心からなっていたけれども、今で言うと警察プラス役場という感じだよね。これに加えて、民営の自治警察組織として自身番・木戸番等が機能していたんだけれど、これらの3系統の警察系統が明治維新で機能しなくなった。
そこで、尾・紀・薩・長等十二藩兵により江戸市中を巡邏が開始されたんだ。」
 「でも、乱れた治安はなかなか回復しなかった。
そこで明治4年に川路利良を中心に取締組を作り、これが邏卒となり、司法省に管轄が移り警保寮が設置されたのが現在の警察制度に繋がっているのよね。」
 「その前に、兵部省となる地方の警備や武力的鎮圧を行う軍務官、犯罪捜査等を行う刑法官、これは刑部省になるんだけど、それから反政府陰謀対策を行なう弾正台の3本立ての組織だったんだよね。それが、府兵と呼ばれた時代。」
 [旧檜山爾志郡役所から発掘された手錠]
 「刑部省と弾正台が司法省に統合されったってわけね。
 明治4(1871)年のことで、同時にヨーロッパのPolice制度を模範として東京に3,000人の羅卒を置くわね。取締組っていわれたけど、神奈川県域にも置かれるようになる。
 この東京府羅卒が翌年設置された司法省警保寮に編入されて警察制度が整備されていく。
 尽力したのは大警視川路利良。」
 「実は府兵時代の前には1ヵ月だけ民費で維持された番人制度っていうものがあったんだ。これは直ぐに廃止されてしまったけど、徳川時代の民営の自治警察組織としての自身番・木戸番等を引き継ぐようなものかな。」
 「で、明治6(1873)年に大久保利通の尽力によって内務省が創設されると警察組織を司法省から引き継いで、翌年にはそれまでの羅卒は巡査という名称に変わるわよね。警視庁が設置されたのもこの年。
 このあたりになると、ずっと現在の警察に近くなるわね。」
 「明治8(1875)年には『行政警察規則』で全国警察組織を統一したのを手始めに、明治19(1886)年には1郡区1警察署となるわけだ。
 僕達が訪れた旧江差警察署の建物が建造されたのもこの頃だね。
 それがずっと続くわけだけど、終戦を迎えると警察制度も大きく変わる。
昭和22(1947)年12月に公布された新警察法によって、警察は国家警察と自治体警察の二本立て化になる。」
 「ところが、この制度は日本の実情には合わなかったのよね。
各自治体が自治体警察を維持していくことが財政的にも難しくなった。
そこで、昭和26(1951)年に警察法の一部改正が行われて、自治体警察の存続を住民投票で決めるようになる。」
 「そして、昭和29(1954)年には新警察法が施行されて国家地方警察と自治体警察が廃止され現在に至っている。」


[参考] 維新政府による裁判所設置