『 享徳の乱 』享徳3(1454)年 12月27日〜

 「享徳の乱は室町時代の関東を舞台にした鎌倉公方と公方を補佐する関東管領との争いね。事の始まりは、鎌倉公方足利成氏が鎌倉の実力者の山内上杉家の長尾景仲が領国である上野へいっていて留守のところを狙って、関東管領上杉憲忠と家宰長尾実景父子を西御門で謀殺したこと。」
 「鎌倉公方足利成氏は、1438年の永享の乱で管領上杉憲実を討つために立ったものの、逆に幕府軍の加勢を得た上杉方に誅された足利持氏の子だね。信州の大井持光に匿われていたけど、許されて鎌倉公方に据えられている。そもそも、鎌倉公方は関東武士団の旗頭でしょ、一方、その公方を補佐する関東管領は京都の幕府から送り込まれてきていて、いわば京都の幕府の代弁者。」
 「流れとして、管領家と関東武士団がシックリいくわけはないわ。さらに、その関東武士団に担がれた鎌倉公方と管領家も反目する。しかもよ、成氏は父親を管領によって殺されているわけでしょ。成氏は関東公方となった後も上杉の力を削ぐ機会を狙っていた。」
 「これに先立つ、1450年にも成氏は江ノ島で長尾景仲と扇谷上杉家の太田道実と激闘を繰り広げているね。このときは戦いは拡大しなかったものの、享徳の乱の導火線になったともいえる。」
 「成氏の与党は武田、里見、印東勢。かれら鎌倉公方恩顧の者たちが、関東管領上杉憲忠と家宰長尾実景謀殺の報を受け、山内上杉邸を急襲。一気に鎌倉を制圧。これ以降、なんと24年の長きにわたって繰り広げられることになる享徳の乱の幕開けね。」
 「室町幕府は、翌年に今川範忠を鎌倉に派遣。今川範忠は鎌倉に火を放って焦土とした。いわゆる『永代鎌倉亡所』だ。」
 「成氏を中心とする関東武士団も黙ってやられたわけではないわ。高幡・分倍河原の戦いでは、長尾景仲軍を破り、扇谷上杉家の顕房と犬懸上杉の憲顕の首級を上げ、小山・結城一族の本拠である下総古河(こが)に入り、成氏は古河公方を称する。
 結城一族は結城合戦を戦った、鎌倉公方の強力な与党ね。」
 「その後、幕府からは新しい鎌倉公方が送り込まれるけど、古河公方の勢力も衰えず、文明14(1482)年に和睦が成立するまで関東は二分されることになった。その間、成氏はずっと享徳という関東私年号を使い続けるけど、ここにも成氏が依拠した関東武士団の独立心が垣間見れるね。」