その後、後の第12代天台座主法性坊尊意僧正が修行するなど栄えたが、時代とともに寺勢が衰えた。それを平
重国の子である明恵上人が復興した。この復興には後鳥羽上皇を始め近衛、鷹司、西園寺家などの名門諸家が帰依し与力した。そして、神願寺都賀尾坊は後鳥羽上皇の院宣によって1206年に日出先照高山之寺という勅額を得て高山寺と名を変えた。特に、近衛、鷹司、西園寺家等の藤原氏一門の帰依を得たことの影響は少なくなく、また藤原一門も氏神である春日大社や氏寺と同格の扱いを以って寺を保護した。
しかし、応仁の乱以降の兵乱によって多くを失った。江戸時代の寛永13(1636)年に永弁・秀融上人による再興、明治の再興を経て現在に至っている。 |