美濃の乱(1391年)
 「室町幕府というと、守護大名の連合政権というイメージがある。
だから、将軍のイメージも薄いんだよね。
でも、足利義満は少し毛色が違う。ひょっとすると、室町幕府を作った高氏よりも異色かも」
 「力はあったかもね。
守護大名の権力闘争に翻弄される将軍というのが室町幕府の将軍のイメージであるということは同感。
その中で、確かに、義満は異色よね」
 「将軍となったのはたったの17歳、正平23・応安元(1368)年。それからしばらくは管領家である細川氏、斯波氏の影響が強かった。
その後は違う」
 「管領家以外の家をどんどん活用していったのよね。管領家以外の守護大名にとっては、義満の引き立てで管領家に迫るような力を付ける機会が与えられるというのだから言うことなし」
 「言うことなしとは言えないでしょ。
だって、将軍の力を強めるというための手段として、守護大名に力を付けさせるわけだからさ」
 「そうね。
例えば、土岐氏なんかは義満に翻弄されたというべきでしょうね。
仕込みは、土岐氏の総領、頼康が元中4・嘉慶元(1387)年に亡くなったときに始まるわね」
 「土岐頼康は美濃国守護でしかなかったけど、足利義詮に目をかけられて近隣の尾張国と伊勢国の守護にまでなった人物。
3ヵ国の守護というのは相当なもの。でも、養嗣子の康行には尾張の守護職を許さなかったよね。それが土岐氏内紛の火種となるわけだ」
 「頼康の弟の満貞が総領家を狙って義満に働きかけたって言われているわね。
そこのところを義満は巧みに利用して、義満は満貞にも康行にも3ヵ国全てを与えるということをしなかった。分割したわけよね」
 「考え方にもよるけど、満貞は本来なら守護職を望めなかったけど、義満の力で尾張国の守護になれた。
康行からすると、将軍は満貞が色々と言ったから1ヵ国は割いたのだと」
 「悪いほうに考えると逆になる。
それでも、両方にかなりフラストレーションが高まるのは確か。
まず、満貞が行動を起す。
元中7・明徳元(1390)年の美濃尾張の内乱」
 「これを鎮圧すべく土岐家総領の康行が兵を挙げる。土岐家として見るならば美濃も尾張も土岐家の守護国、尾張は満貞が守護を務めるとはいえ、土岐家総領として叛乱を食い止める義務がある。そう康行は考えたんだろうね」
 「将軍義満は、尾張に攻め込んだ康行の行動こそ謀反として康行を討伐するのよね。
この話にはおまけがあって、美濃の乱によって土岐氏は満貞が掌握することになるのだけど、その満貞も翌年の明徳の乱で責任を問われて守護職を解任されている」
 「結局は土岐氏は没落してしまう。得をしたのは将軍義満だけだね」