[蝦夷嶋 松前藩福山城 跡]

 蝦夷、現在の北海道に成立した唯一の藩である松前藩は幕藩体制では米の収穫出来ない唯一の藩としても知られている。
 藩主の蠣崎家の家紋は武田菱だが、これは藩祖が甲斐武田家と遠戚の関係にあるとされる武田信広が、安東一族の血を引く蝦夷島主の蠣崎家を継いだことによる。
 そもそも、武田(蠣崎)信広が蠣崎家を承継したのはアイヌとの闘いにおいて信広が功績を挙げたからというが、その後の蠣崎氏の前半の歴史はアイヌとの抗争の歴史であったともいえる。
 

2002年9月16日(月)、松前町松城にて撮影。


現在、檜山地方には海岸に広々とした光景が拡がる。
 そして、こうした風景の背後にある小高い丘にはかつて陸奥国から進出した安東一族の末裔達であり、館主と呼ばれた兵達の残滓である館の跡が数々残されている。

  松前藩の歴史は、松前氏の祖である武田信弘が渡島半島に渡ったことに始まる。
武田信弘は甲斐武田家と遠戚関係にある若狭武田家の出身とされている。しかし、この点については異説もあり、下北の武士であったとも言われている。
 そもそも、蝦夷地は鎌倉時代に安部氏の流れを継ぐ津軽安東氏が幕府から蝦夷管領に任命されたのが蝦夷地支配の始まりである。
 最初の内はアイヌ勢力との協力関係も成立していたものの、秋田に本拠を構えていた上之国安東氏の一族である津軽十三湊の下之国安東氏のうちの安東盛季が、勢力を伸ばしていた南部家の南部義政に敗れ津軽を捨てて蝦夷地へのがれたことで平和な均衡が崩れ去る(嘉吉3[1443]年)。
 その後、康正(1456)年に蝦夷の下之国安東氏は秋田の下国安東氏に招かれて能代川流域の秋田檜山に戻り秋田湊安東氏の家督を合わせて秋田安東氏となるが、その間、蝦夷管領支配下の下之国守護下国氏、上之国守護蠣崎氏、松前守護相原氏の三守護職が置かれ12の館(志海苔、箱舘、茂別、中野、脇本、穏内、笈部、大館、弥保田、原口、比石、花沢)を中心として一定の勢力圏を形成する。
 安東氏は拠点を置く上之国安東氏と津軽十三湊の下之国安東氏の二家に分かれていたが、若狭から陸奥田名部に移っていた武田信弘が安東政季(潮潟政季あるいは下国安東政季)とともに蝦夷に渡るのは享徳3(1454)年のことである。
 このように、安東一族が相次いで蝦夷に入ったことで蝦夷地の勢力構図が不安定となり、長禄元(1457)年にはコシャマインの乱が渡島を覆い12館のうち10館が陥落し日本勢力は押され気味となる。
そして、道南12館のひとつ花沢館主蛎崎季繁の客将武田信弘は勝山館(上ノ国町)にコシャマイン親子を倒し、これによって信弘は蛎崎家を継ぎ松前藩の基礎を築いている。
 これでアイヌ側との戦争が終結したわけではなく、2代光広のときには安東一族である下国氏と松前守護相原氏が滅亡しするに至っている。しかし、蛎崎光広は着々と勢力を伸ばし、本拠地を離れて松前に進出するとともに、蝦夷管領安東氏から蝦夷代官を拝命し事実上の蝦夷支配を開始することになる。
 天文20(1551)年 大館(徳山館、松前)の館主蠣崎季広が東部知内のチコモタイン首長と西部セタナイのハシタイン首長との間で、商船にかける税の一部を「夷役」として渡すことにより、交易分担と支配相互承認を定める『夷狄の商舶往来の法度』を交わし、康生2(1456)年以来の和夷百年戦争を終結。
 これは、法度の形式を採っているが、アイヌ勢力と蠣崎氏との条約と考えることができる。
 文禄2(1593)年には、蠣崎慶広が豊臣秀吉によって所領安堵され、慶長9(1604)年には徳川家康によって蝦夷交易独占を認める黒印状が与えられ、7000石格の交代寄合となり松前氏を称するようになる。将軍家綱のときには、10代藩主矩広が1万石格となり大名として確立する(享保4[1719]年)。
 大名とはいうものの、松前氏は石高ではなく交易権が知行の内容であり、家臣団への知行配分も商場知行という独自の知行制度を敷いていた。
 このころまでには、西南部アイヌ勢力はシャクシャインの乱(寛文9[1669] - 寛文12[1672])によって弱体化し松前氏の蝦夷地支配も安定してきていた。
しかし、13代道広のときに、ロシア軍艦を率いたラクスマンの根室沖の弁天島への上陸を許したことおよび藩の財政が窮乏し商人からの公訴が続出したことによって、寛政11(1799)年に幕府は松前氏から東蝦夷地を取り上げて直轄領とした(蝦夷奉行、後の箱館奉行の設置は1802年)。同時に幕府は津軽藩・南部藩・仙台藩に蝦夷地防衛のための出兵を命じるに至って松前氏の蝦夷地支配は大きく後退することを余儀なくされる。
続いて、1807年には西蝦夷地も幕府直轄領として、ここに松前氏の所領であった東西蝦夷地が全て幕府直轄領となり、松前氏は松前藩は9千石の小名に降格させ、陸奥国伊達郡梁川に移封となる(梁川時代は15年に及んだ)。
これに伴って、箱館に置かれていた奉行所を松前に移し、松前奉行とした。
文政4(1821)年には、松前氏の旧領を安堵し東西蝦夷地を再び松前氏に与え、翌年に松前奉行職を廃している。
しかし、日米和親条約および日露和親条約の両条約が締結された安政元(1854)年には、再び箱館奉行設置。その翌年には再び東西蝦夷地を幕府直轄領として箱館奉行の管轄とさせ松前藩の管轄は福山周辺に限られた。このときの慶広のときに幕命によって松前城を築城している。
このように、蝦夷地の支配は松前藩時代から、寛政11(1799)年から文政4(1821)年に及ぶ第1次幕府直轄時代、さらに安政4(1854)年までの松前藩復領時代、そして明治元(1868)年までの第2次幕府直轄時代を経て、明治維新後の箱館裁判所・箱館府時代から開拓府時代へと目まぐるしく変遷を遂げた。