長崎は不思議な土地である。

正確に言うとするならば、長崎だけではないかもしれない。

かつての堺の町も不思議な町であるのかもしれない。 別に、町ということに拘る必要は殊更にはない。 もう少し広い範囲を考えるとするならば、日本の歴史において不思議なところは数多ある。

加賀国しかり、畿内の大和しかり。

しかし、それでもなお、長崎という町は異彩を放っている。 オーラともいうべき、長崎を包み込む空気は、長崎が持つ年輪というか、路地に深く刻まれた長崎を形造ってきた歴史に源を発しているとしか形容の仕様がない。

悲しむべき先の戦争のことに触れようとしているのではない。

話はもっと、長崎の町の根源、その出自にまでも遠く時間を遡る。

長崎はかつては日本という地理的な地域に確実にありながら、アジアの中のアジアではない部分であった。

長崎は当時、大村純忠の支配下にあり、長崎甚左衛門純景が統治していた。 この長崎家は新たに町割りされた長崎六ヵ町との間にいろいろとあったようだがそれは置いておく(天正七年(1579)合戦)。 一番の問題は、長崎湾の南側の城山に拠る深堀氏であった。

この深堀氏はもともとは鎌倉幕府の御家人という由緒を持つ旧家であり、遠く上総国から戸町浦の地頭として下り、この地に勢力を張っていた。 その深堀純賢が良港である長崎を手中に収めようとししばしば長崎を脅かしたのである。

長崎に惹き付けられたのは深堀純賢だけではない。 伊佐早(諫早)の高城城主・西郷純尭もまた長崎を脅かした。

そして、当時、九州北部で覇を唱えていた佐賀の竜造寺隆信である。 竜造寺家は薩摩の島津家と九州を二分する勢いとなり、遂には大村家を配下に納める。 しかし、キリシタンでもある大村純忠の内心は納まらなかった。

いつキリスト教本拠地である長崎の地が竜造寺の直轄地になるかわからない。

そこで、大村純忠は窮余の一策を講じる。 天正8(1580)年、長崎港・新町六ヵ町・茂木をイエズス会に寄進するに至るのである。

ここに、日本にあって日本ではないとも言える教会領が誕生することになる。

長崎の町を歩くときに感じる不思議さはこのことと関係があるように思えてならない。