[早雲寺殿二十一箇条]

 「早雲寺殿二十一箇条というのを分国法とみるのはどうかな。」
 「そうね。
 そもそも、これが北条早雲によって制定されたのかどうかも疑問とされているわよね。」
 「仮にだよ、仮に北条早雲、まぁ、生前は伊勢長氏あるいは宗瑞だけど、その早雲が制定したとしても、いわゆる分国法ではなくて家訓というのかそういうものだよね。」
 「そうね。
 事細かに生活習慣とか信仰だとか文武に関して記した家訓状といったほうがいいわね。そういう意味では、武田家が天目山で滅亡するまで甲信地方で施行された『甲州法度』とか近江国伊香郡で施行された『石田三成条目』とは性格を異にするわね。」
 「江戸時代初期の作成とされる『北条五代記』で存在は確認出来るからこの種のものが後北条家で重視されたというのは事実だろうけどね。
 それが早雲によって制定されたものなのかは疑問とされているという点といわゆる分国法ではないというところは注意が必要だね。」
 「家訓ではなくて、しかも早雲が制定されたとされるものに『伊勢宗瑞十七箇条』があるわね。」
 「それは、家訓ではないけど分国法と言えるのかな?
 伊豆三嶋神社への特別法令だって言われているよね。ちょっと、評価は難しいね。」
 「まぁ、早雲が分国法を制定したにせよしなかったにせよ、早雲がただ略取だけの守護大名とは違って初めて領国経営というものを実践した大名であったという点は評価しましょうよ。
 検地を行って貫高制を整備するなんていうのは法制史上も十分に評価できるわ。」
 「その点は異論がない。
 早雲が今川家のお家騒動を解決したことによって駿河興国寺城主となった(1487)のを皮切りに、堀越公方足利茶々丸を追って伊豆を手中にし(1491)、瞬く間に関東の要衝小田原城を大森氏頼から奪取し(1495)、遂には関東の名門の三浦義同を滅亡させ(1516)、関東を支配する足場を築いていけたのは領国・領民支配が非常に上手くいっていたからだからね。」


[秩父永田城跡]  2002年9月21日13時撮影。
 後北条氏の小田原城の出城と言われ、鉢形城主北条安房守氏邦の家老、井上三河守が守ったという。あるいはまた氏邦の家臣寺尾彦三郎の居城だったともいう(『秩父志』)。
 かつての城の中心には秩父22番札所として有名な永福寺[右写真]があるが、その境内の不浄の後ろは急斜面の崖となっており、かつての城の姿を想起させる。
 なお、写真は永福寺から23番札所へと至る道の途上にあり、4本の梅の木が目印の堀跡。この堀は約90メートルにわたって現存しており土塁上には虎口がはっきり分かる。地元の方の話によると食糧難の時代に堀を水田としたものの、今では草むらとなっている。
 後北条氏が支配する前の永田城は、武蔵七党の丹党中村氏の城だったという。
 永田城のあたり(中村)は平 将常が居所としていたことで知られる。将常秩父氏を名乗り、孫の重綱は武蔵留守所総検校に任命され勢力を広げ、その子孫には畠山氏、江戸氏がいる。但し、桓武平氏流秩父氏は比較的早くにこの地を離れ、そのためにこのあたりは武蔵七党流の中村氏が支配した。
 また、永田城跡のすぐそばには、「キャッツアイ」という安くて美味しい定食のお店がある。