紀元前218年に至るまでには,経済国家カルタゴはヨーロッパ大陸の現在のスペインに当たる地域に帝国の版図を拡大し,富と勢力を蓄え繁栄を謳歌していた. 第1次ポエニ戦争のときにも増して危機感を強めたローマは,スペインのエブロ川を越えてカルタゴが領土を拡張しないという条約を無理強いする.しかし,この条約だけで枕を高くして眠りにつくローマではない.スペインの小都市サグントゥムが,友好と同盟を求めてローマに接近してくると,ローマ人はイベリアのカルタゴ帝国のど真ん中に同盟者を持ちたいという欲望に抗しきれなくなった.サグントゥムと同盟を結ぶことでカルタゴの勢力圏からローマを守れると考えたのである.

ローマの思惑はうまくいくはずであった.しかし,この均衡は,数年後に崩れることになる.紀元前221年,弱冠二十五歳の一人の若者がこのカルタゴ領スペインを統率することになったのである. この若者こそが後にローマを震え上がらせるハンニバルである. 当初ハンニバルは,サグントゥム周辺には近づかないようにしていた.これは,ハンニバル自身がなるべくローマと衝突する事態になるのを避けたかったからに他ならない. このような若きハンニバルの考えとは反対に,サグントゥム人は新しい同盟国を信じて意気上がり,スペインの他の都市と政略的な駆け引きを開始する.これは,サグントゥムにとっては不幸な結果をもたらすこととなる.ハンニバルはサグントゥムの同盟国ローマの脅威を感じながらも,サグントゥムを攻撃し,カルタゴの安全保障のために征服するのである.

サグントゥムの陥落の知らせを耳にし,ローマがとった態度も始めは外交的手段によるものであった.ローマは,カルタゴに,ハンニバルを解任してローマに送るよう要求したのである.ローマはこれによって全ての問題が上手く解決するであろうと考えた.ところが,カルタゴはこのローマの要求を拒否したのである.そして,ここに第2次ポエニ戦争(紀元前218年)が勃発する.この時点で,カルタゴは第1次ポエニ戦争における単なる経済国家カルタゴではなかった.第1次ポエニ戦争に敗れて後,カルタゴはスペインに強大な帝国を創り上げ,恐るべき大軍隊を擁するようになっていたのである. ハンニバルはその強大な軍隊をスペインから統率し,ヨーロッパ大陸を横切って進軍.紀元前218年9月,全軍を以ってアルプス山脈を越え,イタリアに雪崩を打って攻め込む.これには軍事で鳴らすローマも震撼せざるを得なかった. カルタゴ軍はヨーロッパ横断とアルプス越えという長征に疲れてはいたものの,北イタリアで遭遇したローマ軍を文字通り撃破した. 2ヶ月のうちに,カルタゴ軍は2つの都市のみを残して北イタリア全土を制圧した. この華々しい勝利を見て,北からおびただしい数のゴール人がカルタゴに加勢する. こうしてハンニバルの率いるカルタゴ軍は5万人以上にも膨れ上がったという. もはやカルタゴにとって,そしてハンニバルにとって勝利は目前であった.後は,ローマの同盟者たちとローマに従属している都市をカルタゴ側につけることだけが残された.これに成功すれば,カルタゴはあの強大な軍事国家ローマを軍門に下すことが出来るのである.

しかし,事態はそれほど簡単なものではなかった.ローマ軍を率いるスキピオは,なんと海を越えてアフリカ大陸に進撃し,カルタゴ本国を直接攻撃したのである(紀元前204年).これは北イタリアで勝利を確信していたカルタゴ軍にとっては意外であった.無防備とも言えた本国を直接攻撃されたカルタゴはローマに和平を請わざるを得なかった.この和平条約の一部として,ハンニバルの率いるカルタゴ軍のイタリア半島からの撤退が要求される.ことここに至るまでハンニバルはローマに対して敗北を喫したことはなかった.全ては順調にいっていたのである.それが今や,自分の勝利とは関係なく本国とローマとの条約によって,自分が勝ち取った地からの撤退を余儀なくされたのである.戦闘にはすべて勝ったにもかかわらず,戦争には敗れたという良き例であった.ハンニバルが本国カルタゴに帰還すると,カルタゴ人はローマに対する戦意を回復し,紀元前202年,ローマに対する最後の戦いに立ち上がる.だが時の流れははカルタゴには味方しなかった.この時,ハンニバルは,北アフリカのザマで,スキピオが指揮する軍と刃を交え,敗北を喫する.そして,念願かなって,ローマはカルタゴを属国化,北アフリカを含む西地中海全域をその版図に加えるのである.

この戦争で,ローマは戦術的には勝利を収めたわけではない.軍事国家として成立したローマとしてはある意味で耐えがたいことではあったが,ハンニバルが率いるカルタゴ軍に数々の辛酸を舐めさせられている.しかし,結局のところ勝利を手にしたのは歴戦連勝のカルタゴではなくローマであった.これはローマが同盟体制に支えられたことにもよる.ハンニバルはローマと同盟諸都市との離反策を推し進めたが,実際にこのカルタゴの誘いに乗ったのはローマから極めて遠い諸国,南部とシシリーだけであった.この闘いはマケドニアのフィリッポス5世がハンニバルと同盟,地中海地域征服のための戦争を始めたのが直接の原因である.しかし,この闘いは結果としてローマを地域の強国から国際的強国へと変えたのである.