『 島原の乱 』 (1637)
島原城
 「天草地方は関が原の前まではキリシタン大名の小西行長が統治していたね。この影響で領内にはキリスト教徒が多かった。ところが、関が原の後は唐津の寺沢広高が統治。一方の島原は同じくキリシタン大名の有馬晴信が統治。キリスト教が広まる素地があったというべきだね。」
 「ところが、有馬晴信は『岡本大八事件』の後に有馬家の存続は許されたものの、宮崎へと転封、代わって松倉重治は入封。住民はキリスト教徒、統治者は非キリスト教徒という状態になってしまう。そらには、幕府はキリスト教徒を取り締る方針だから、統治するには非常に難しい土地になる。」
 「この松倉家の入封に際して、澳門に追放されたママコス神父が『当年より五々の数をもって天下に若人一人出生すべし。その稚子習わずして諸学を極め、天の印顕わるべき時なり。野山に白旗立て諸人の頭にクルスを立て、東西に雲焼る事有るべし。野も山も草も木も焼失すべきよし。』という非常に不気味な予言を遺していく。」
 「その予言は、後に天草四郎を担ぎ出すために渡辺小左衛門が後で作った話だと言われているわね。ともかくも、そういう予言が重要度を増してくる時がやってくるのよ。一つは寛永11(1634)年から寛永14(1637)年までの大凶作。」
 「そうした中で、寛永14年10月23日に島原の有馬村で宣教活動をしていた三吉と角内が逮捕されるという事件が起こる。これが引き金を引くことになるわけだ。彼らの下に集まっていたキリスト教徒は彼らの家に参集。これを取り締るために代官である九郎左衛門・兵左衛門が派遣されるけど、キリスト教徒達を解散させることが出来ず、逆に九郎左衛門が撲殺されてしまう。」
 「ようやく逃げ帰った兵左衛門の報告によって、島原藩は急派。しかし、時既に遅く、覚悟を決めたキリスト教徒達は島原藩全土を巻き込んだ一揆となって抵抗するのね。こうなっては、もはや島原藩だけでは鎮圧することは困難。鎮圧はおろか逆に攻略されてしまう危険性すら出てきた。」
 「この一揆が天草にも飛び火、天草では小西浪人の子供の四郎を盟主に担いで、富岡城を包囲。島原城と富岡城の2城がキリスト教徒側に包囲されるという事態に驚愕した幕府は、板倉重昌を派遣して鎮圧を図る。」
 「富岡城を陥落させることを断念したキリスト教徒側は廃城となっていた原城に篭城して、板倉重昌率いる幕府軍を迎え撃つ。板倉重昌は優秀ではあったのだけれども、小大名に過ぎなかったために細川家や鍋島家の統率をとることが出来ず、原城を包囲した34,000の兵はキリスト教徒側37,000と睨み合いを続ける。」
 「事が尋常ではないことに気が付いた幕府側は老中松平信綱を総大将とする12万の大軍を派遣。事ここに至って、板倉重昌は武士の面目にかけて、老中の軍が到着する前に突撃を敢行し、4,000の命とともに露と消えた。」
☆ 「信綱の軍が到着すると形成は変化していくわね。4倍近い大軍で原城を包囲したということと、兵糧攻めへと作戦を変更したのよ。そうして、城内の食糧が底を尽いてきた段階で全軍で総攻撃をかける。これによって、幕府軍の内偵役を果たしていたといわれる山田右衛門作を遺して全員を討ち取ったのね。」
 「それは男女にかかわり無くだよね。これで、乱は終息するんだね。あっ、それと、島原の乱とか天草の乱とか言ったけど、単にこの2地方だけではなく、西海道を巻き込んでの叛乱だったから『西海の乱』というのが正しいと言われる。」
 「それから、島原の松倉重治は美作国に配流の上で斬罪。斬罪よ、切腹ではないの。天草を統治していた唐津の寺沢堅高は天草領を没収。堅高は責任を取って切腹して果てたというのが最期の結末になるわ。」