『 昭和恐慌 』

 「昭和恐慌は起きるべきして起こったとも言えるわ。金融恐慌の直接のトリガーを引いたのは、野党のやいのやいのの野次に血が頭に上った片岡直温大蔵大臣の失言による東京渡辺銀行の破綻でしょ。だけど、これはきっかけにしか過ぎないわ。」
 「丁度、第一次世界大戦ブームで投資が投資を生むと言われた好景気の後になるね。それが、戦後当然に大量の不良債権を生むことになる。事実、その頃の日本も1920年には恐慌に陥ってしまった。ここで、不良債権問題の片を付けておけば良かったものを、金融システムの破綻を恐れた政府が積極的な救済政策を採用したことで、精算されるべき戦争ブームに伴う不良債権が処理されずに残ったわけだ。」
 「そういう状況で、なんとか最悪の事態を乗り越えたと思ったのも束の間。1923年に関東大震災が発生する。これは、いわば病み上がりの日本経済には堪えた。」
 「関東大震災という非常事態に際して復旧のために発行された震災手形の処理が一向に進まず、これがまた不良債権となって、不良債権が不良債権を呼ぶという激しいスパイラル状態に陥ってしまった。大きな倒産劇こそ無かったものの、地方を中心に倒産が相次ぎ、それにも拘らず通貨供給量が膨れ上がっていたために大戦中に高騰した賃金水準もそのまま高止まり。企業は厳しい経営環境の中で倒産を免れるために借り入れを増やしたために金利も高止まりした。こうして、物価高を含めて高金利、高賃金の三重苦を背負ったて何時破綻しても可笑しくなかった日本経済は片岡蔵相の発言で火が付いた。」
 「東京渡辺銀行の破綻が、今太閤とばかりに輝いていた新興財閥の鈴木商店を襲うのね。鈴木商店は台湾銀行と深く結びついていたから、連鎖的に台湾銀行までが経営危機に陥る。そういう風にして、連鎖が始まり、台湾銀行を含めてなんと36行もの銀行が休業に追い込まれたわけね。」
 「この金融恐慌は三井、三菱、住友、安田、第一が出資した『昭和銀行』の設立でようやく食い止められる。『昭和銀行(昭和19年に安田銀行に併合)』は単独再開の難しい休業中の銀行を一つにまとめ、その資産・負債を引き継ぎ、日銀からも特融を受けて不良債権の処理に当たった。」
 「ところが、その2年後に浜口内閣は旧平価による金本位制復帰をあくまでも実施しようとするのね。通貨供給量は増加しきっていた中での旧平価による金本位制復帰だから物価を引き下げる必要が生じるので緊縮財政に踏み込んでいく。井上財政が展開するのね。」
 「この井上財政の結果、再び日本経済は不況へと突入していくわけだね。さらにこうした国内事情に加えて、1929年10月24日にニューヨークで「暗黒の木曜日」を契機とした大恐慌が発生しその嵐が日本にも及んでくることになるね。」
 「今度は企業の破綻、株価の暴落、失業の増大の三重苦が重く圧しかかるという非常に悲惨な結果をもたらしたといえるわ。緊縮財政を志向した井上準之介が大蔵大臣として日本経済の舵取りをしたのは、浜口内閣と若槻内閣下での1929年から31年まででしょ、29年度は当初予算の約5%削減、翌年度の予算では1割にも及ぶ予算削減。」
 「なんだか、悪いことばかりのようだけど、井上財政は当初はそれまでの不良債権を一掃するというので非常に期待されていたんだよ。ところが、失敗してしまった。30年度のGDP成長率は8%の減になってしまったしね。」