[新律綱領の起草]
日本は西洋風の近代国家への脱皮を図るためにも法制度を早急に整備する必要があった。幕藩時代の法制度もかなりの発達を遂げていたが、理想をもって幕府を倒した新政府としては、それをそのままの形で引き継ぐことは出来ない。なんと言っても、維新政府はそれまでの徳川幕府とは異なる近代的な「新しい」政府なのだ。
こうしたわけで、明治2年に刑法官に新律編修局を設置し、新しい刑法の検討が始まる。西洋風の近代国家を志向していく維新政府において、この新律編修局での議論が唐律、明律、清律など中国大陸法を中心に進められたということは面白い。
しかし、こう考えるのは現代の視点といえる。江戸時代の法体系は鎌倉以来の固有法を中心としていたものの、その根底には大陸法があった。そして、唐律は特に世界的に見ても精緻な法体系を誇っていたという事実がある。こうした事情の中で、維新政府が新しい法体系の模範として中国の法体系を選んだのは至極当然だとも言えよう。
こうして、夏場までに「新律綱領」の草案が完成し太政官に提出された。
参考文献:小野清一郎著『刑法講義全』
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