『 高橋財政 』

 「金本位制復帰を目指す民政党浜口内閣の元で第一次世界大戦前の旧平価での金解禁を実施した井上大蔵大臣の財政政策は金解禁実施後の衆議院選挙でも支持を受けたね。その後、浜口首相が病に倒れ、この病気がもとで、昭和5(1930)年4月14日に総辞職。改革に意欲を燃やした浜口は8月26日に帰らぬ人となる。改革の後を継いだのが、元憲政会総裁の若槻礼次郎だね。この若槻内閣でも、引き続き井上蔵相が舵取りをする。」
 「世界経済の混乱が日本にも波及してくる中で、井上蔵相は緊縮財政を堅持し、国内経済はさらに混乱していくのよね。そんな中で、1931年9月の満州事変が勃発して、その対処法を巡る政治的混乱によって若槻内閣は総辞職。ここに緊縮財政によって日本経済を混乱させた井上財政は終止符を打つことになったのよね。」
 「ここで高橋蔵相による高橋財政の登場と相成るわけだ。
高橋是清は米国で奴隷の屈辱を味わうなど前半生は波乱万丈だったけど、日銀に入った頃から能力を発揮して、1913年には第1次山本権兵衛内閣の大蔵大臣を務めたのを手始めに、21年の原敬暗殺後には首相兼日銀総裁、その後も田中義一内閣でモラトリアムを実施した人物だね。若槻内閣の後、政権をとったのは政友会の犬養首相だけど、その下で再び大蔵大臣を務める。彼によって、金輸出再禁止が行われ、軍事費の増大や時局匡救事業等の農村土木事業の振興という、それまでの井上財政とは正反対の政策が発動される。結果、経済もようやく上向いてくるんだね。」
 「もっとも、高橋蔵相はいつまでも積極財政を続けようとは考えていなかったわけよね。蔵相は経済が低迷している時期に国が積極財政をとることによって、公債負担が増加したとしても、やがては積極財政によって民間の活力が増し経済が回復へと向かうことによって、公債も償還できると考えていた。」
 「ケインズ政策の先駆けとも言われているよね。この積極財政は重工業部門などの自立的な生産拡大をもたらして日本経済を回復軌道に載せたわけだけど、一方で批判もないわけではないよね。」
 「政策が都市に偏り過ぎたとか、軍事費に傾斜し過ぎていたために、当時最も疲弊していた農村部へは積極財政の恩恵が及ばなかったというものよね。確かに重工業は回復して不況を脱したのだけれど、農村部は農業不況を引き続いて経験することになる。そういう農村部から、多くの青年達が軍に入ってくる。軍事費が増大していたからね。これが後の青年将校による二二六事件への伏線となり、高橋是清も銃撃を受けた上に拝み討ちに合うという壮絶なる最期を遂げたのね。」