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アルファベット別索引
過日録
年表

[歴代徳川幕府将軍]
初代 慶長8年〜慶長10年
従一位 太政大臣 左大将

在位1603〜1605
徳川家康 [1542〜1616] 1542年 三河岡崎城主松平広忠の子として生まれる。
49年 駿河国今川義元の下に人質として送られる。1562年 尾張国織田信長と軍事同盟を結ぶ。
1572年 「見方ヶ原の戦い」で甲斐国武田信玄に大敗を喫する。
79年 信長の命により嫡子信康、正室築山殿を処刑。
82年 織田信長、本能寺にて明智光秀に討たれる。
84年 豊臣秀吉と「小牧・長久手の戦い」を戦う。重臣 石川数正、水野忠重が豊臣家に出奔。
86年 秀吉に臣下の礼をとる。90年 関東へ移封。
98年 豊臣秀吉薨去。
1600年 「関ヶ原の戦い」で豊臣方(西軍)を下す。
03年江戸幕府を開府。
14年 方広寺鐘銘事件が「大阪冬の陣」に発展。
15年 「大阪夏の陣」によって、豊臣秀頼が自害し、豊臣家滅亡。
16年 薨去す。
2代 慶長10年〜元和9年
従一位 太政大臣 右大将

在位1605〜1623
徳川秀忠 [1579〜1632] 母は於愛(おあい)。
1619年 安芸広島城主福島正則を改易。
1624年 大徳寺、妙心寺僧侶への紫衣勅許が禁中並公家諸法度に反し違法であるとして「紫衣事件」が起きる。これにより、後水尾天皇が奈良時代以来の女帝である秀忠女子東福門院和子の子明正天皇に譲位する。
3代 元和9年〜慶安4年
従一位 左大臣 右大将
在位1623〜1651
徳川家光 [1604〜1651] 母は近江浅井氏。 
4代 慶安4年〜延宝8年
従一位 右大臣 右大将
在位1651〜1680
徳川家綱 [1641〜1680] 徳川家光嫡子。
5代 延宝8年〜宝永6年
正二位 右大臣 右大将
在位1680〜1709
徳川綱吉 [1646〜1709] 家光四男、館林宰相
6代 宝永6年〜正徳2年
正二位 内大臣 右大将
在位1709〜1712
徳川家宣 [1662〜1712] 家光孫、甲府宰相。徳川家光の三男甲府宰相徳川綱重の嫡子(徳川綱豊)。
新井白石(1657-1725)登用による正徳の治(-1715)の実施。1702年 赤穂浪士が吉良邸に討ち入る。
7代 正徳3年〜正徳6年
正二位 内大臣 右大将
在位1713〜1716
徳川家継 [1709〜1716] 家宣の四男。
8代 享保元年〜延享2年
従一位 右大臣 右大将
在位1716〜1745
徳川吉宗 [1684〜1751] 紀伊徳川家光貞子。
享保の改革(-1745)
9代 延享2年〜宝暦10年
従一位 右大臣 右大将
在位1745〜1760
徳川家重 [1711〜1761]
10代 宝暦10年〜天明6年
従一位 右大臣 右大将
在位1760〜1786
徳川家治 [1737〜1786] 
1776年-86年 田沼の時代。この田沼意次による改革により、印旛沼、手賀沼開拓が再開され、蝦夷地開拓も計画される。
11代 天明7年〜天保8年
従一位 太政大臣 右大将
在位1787〜1837
徳川家斉 [1773〜1841] 一橋治済の長男。
老中松平定信(吉宗の子である田安宗武の子。白河松平家)による享保の改革を模範とする幕政改革により統制経済を実施。
12代 天保8年〜嘉永6年
従一位 左大臣 右大将
在位1837〜1853
徳川家慶 [1793〜1853] 徳川家斉の二男。
天保飢饉、大塩平八郎の乱を受けて、老中水野忠邦による天保の改革(1841-1843)により、人返し令、上知令、株仲間解散を実施する。
13代 嘉永6年〜安政5年
正二位 内大臣 右大将
在位1853〜1858
徳川家定 [1824〜1858] 徳川家慶の四男。
14代 安政5年〜慶応2年
従一位 右大臣 右大将
在位1858〜1866
徳川家茂 [1846〜1866] 紀伊徳川家(慶福)。紀伊国和歌山藩主徳川斉順の二男。
15代 慶応2年〜慶応3年
正二位 内大臣 右大将
在位1866〜1867
徳川慶喜 [1837〜1913] 水戸徳川家・一橋家。常陸国水戸藩主徳川斉昭の七男。