[ 和田倉御門内辰ノ口評定所 ]
「着いたね。」
「ここが和田倉門ね。
今では、丸の内のサラリーマンのお昼の憩いの場。
最近だと、丸ビルが新しくなったばかりのせいか主婦のひと達がかなり立ち寄っているわね。」
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「その憩いの場というのは、橋を渡った向こう側だね。橋のこちら側のあたりは、まさに、江戸時代には最高裁判所の役割を担っていた辰ノ口評定所があったところだよ。」
「当たりまえといえばそれまでだけど、公事師が集まっていた常盤橋門からすぐ近くね。北町奉行が置かれていた呉服橋へも、南町が置かれていた数寄屋橋へも近いわ。」
「呉服橋は常盤橋のすぐ横といってもいいくらいだからね。
この評定所で、大名のお家騒動や直参旗本に関する事件、そして、寺社奉行、勘定奉行、町奉行の三奉行の所管範囲が複雑に入り交じっている事件が老中、大目付が参加して扱われたわけだ。」
「各奉行が所轄権限内の事件を自ら裁く一手限り、あるいは刑事裁判の場合の手限り吟味以外はここに持ち込まれたのね。
そういえば、火付盗賊改の長谷川平蔵もよく評定所にお伺いを立てていたのよね、記録に残っている。」
「評定所は最高裁判所だって言ったけど、家光の頃までは御直裁判(ごじきさいばん)といって将軍自らが裁判を行っていたんだ。それが、時代が下るに従って老中に委任され、さらには評定所に委任された。」
「評定所イコール最高裁判所となるのはだいたい江戸の中ごろよね。
そして、民事事件では支配違いの公事と呼ばれる御領と私領間などと引合物、刑事事件では重大事件を扱った。」
「引合物というのは官僚と官僚との間の事件だね。
そういう事件を、立会では三奉行と大小目付、式日では三奉行、大小目付に老中が加わって審理を開いた。
加わってというのは臨席というべきかな。
裁判官の構成でいうと、三奉行プラス大小目付の5裁判官のときを初め、町奉行と両目付の3裁判官である場合もあった。」
「評定所を構成する裁判官の人数によって五手掛、三手掛と呼ばれたのよね。
幕府の代官はあたりまえだけど、諸大名まで裁判にあたっては評定所の判例を参考としたから、まさに司法の頂点にあったといえる。」
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