柳森神社(都)

小伝馬町から秋葉原の柳森に向かう。三森の最後である。
一駅なので、忽ちににして着く。改札を抜けて階段を上ると目の前には神田川が流れている。そこに架かる橋の袂が、かつての柳原河岸だ。そして、ここに、江戸城を川の氾濫から守る目的で土手が築かれた。8代将軍徳川吉宗(在職:1716-1745)の命で柳が植えられたというが、既に土手もなく柳も一本しかない。もっとも、吉宗時代の柳ではなかろう。
橋を渡って暫く進むと、神田川に面して柳森神社がある。土手に鎮座しているということなのか、道から下ったところに社殿がある。
この神社の歴史も古く、太田道灌が江戸城を築城した際に、江戸城の鬼門除けとして柳を植えて稲荷社を建立したことが起源という。長禄2(1458)年のことになる。柳森の地名は、この時に興ったものとされる。
但し、太田道灌由来の柳森は現在の地ではない。現在の地へは万治2(1659)年に遷座した。そこに、柳を植えたのが吉宗ということになる。
吉宗治世の元文年間(1736-41)には床見世が軒を連ねたが、火除地とするために移転を余儀なくされ、老中松平定信は寛政3(1791)年に七分金積立制を運用する町会所と籾蔵を境内近くに建てた。その碑が境内にある。
神田川沿いの低い地にあるために、道路に面した鳥居から階段で降りていく形になる。道路から見ると社殿を見下ろすようなことになるのが、少し気が引ける。横には商店などの建物が並んでいるが、どの建物の入り口の高さも道路と同じ。これに対して柳森神社が低くなっているということは、後から土を盛ったということだろうか。
その分、今はない柳原土手の面影を境内に見ることが出来た。

椙森神社(都)

目印のUFJ銀行を見つけると、そのすぐ先に、椙森神社が鎮座する。
この社は、天慶3(940)年には俵藤太が戦勝祈願をしているから歴史が古い。お狸様とも呼ばれ親しまれてきた神社である。烏森と同様、決して広くはないが、倉稻魂大神、素盞嗚大神、大市姫大神、大己貴大神、五十猛神、抓津姫神、大屋姫神、事八十神と数多くの神を祀っている。

烏森神社(都)

倉稻魂命、天鈿女命、瓊瓊杵尊を祀っている。
烏森はJR新橋駅に烏森口として名を刻んでいるが、想像の通り駅から目と鼻の先に鎮座している。この日は、社殿の横のビルが工事中で建物全体がビニールのカバーに覆われていた。そのせいもあるだろう。横に構える烏森神社は脇にあるといった印象を与えていた。
この神社の歴史は古い。



そもそも、烏森なる地名は、江戸湾に面した桜田村の松林一帯を指し示す「枯洲(かれす)森」に由来するという。
そして、その枯洲森に社殿を建立したのは、関東の自立を図り大和朝廷に弓矢を引いた平将門を鎮圧した俵藤太として知られる鎮守将軍藤原秀郷、その人である。秀郷は将門に対するに際して、椙森の稲荷社で戦勝祈願を執り行っている。その椙森の白狐が霊験の地として告げたのが烏森だったという。
もちろん、伝説の域を出ないだろう。
しかし、時代は下って享徳4(1455)年に初代古河公方の足利成氏(1438-97)が前年に関東管領上杉憲忠を誅殺し室町幕府に弓を引いたことで始まった享徳の乱の戦勝を祈願して右近の剣を奉納していることから見ても歴史の古さは分かる。
確かに、歴史は古いのではあるけれども、縁起によると境内の狭さは江戸初期から変わらないとのこと。
写真では分かりづらいが、決して広いとは形容できない。かの英雄俵藤太所縁の神社としてはあまりにもひっそりとし過ぎている。

臨川山源法院(金沢)

尾崎神社(金沢)

 近江町市場を通り抜けてずっと真っ直ぐに進む。すると、やがて道はT字路になる。かつての金沢大学の門のすぐ側、お城の入り口のところ。その当りが見え始めてきたところで真っ赤な建物が目に付く。これが尾崎神社。
尾崎神社というが、実は第4代金沢藩主前田光高が寛永20(1643)年に徳川家康を祀ったもので東照宮である。実際、この尾崎神社は東照宮の特徴を備えた権現造りであり、北陸の東照宮とも言われている。何故、前田光高がと思われるかもしれない。これは別に時の幕府に配慮したわけではない。光高の母が徳川秀忠の娘珠、つまり徳川家康の孫であるということによるもの。
東照宮とは呼ばれず、権現堂と呼ばれ城内に鎮座していたが、それも明治維新によって現在の城外の地に移転され、名も明治新政府を慮って尾崎神社として現在に至っている。

宇多須神社(金沢)

 高皇産靈命・武甕槌男命・大國魂命・市杵嶋姫命・崇徳天皇、大山祗命・八重言代主命を祀る。
卯辰山に鎮座していた鬼門を守護する毘沙門天(現宇多須神社奥社)を境内に遷座したために毘沙門さんとも呼ばれる。
浅野川の河辺から掘り出した古鏡に卯と辰の紋様があり卯辰神を祀ったことが発祥と伝えられる。しかし、慶長4(1599)年に藩祖前田利家公が没した後に、利長公が高岡の海老坂八幡宮(現物部八幡宮)と氷見阿尾の榊葉神明宮とを、この地に併祀した。
そのために、当時、この地に既に祀られていた卯辰社は首座を利家公を祀る卯辰八幡宮に譲ることになったという。
その後、明治維新時の混乱によって、金沢城から距離のある卯辰八幡宮は荒廃を極めることになる。それを憂いた旧加賀藩士によって、明治6(1873)年に金沢城出丸金谷御殿跡地への遷座が敢行される。現在の尾山神社がこれである。
その結果、卯辰社が再び宇多須神社となって蘇った。
本当に歴史というのは面白い。