伏見稲荷大社(伏見_京)

宇治から北上して立ち寄る。何度目かの伏見大社。兎に角、鳥居が多い、それから門前にある雀の焼き鳥。それが伏見稲荷のイメージ。
東京にも伏見稲荷を明治時代に勧請した東伏見社がある。だから、馴染み深い。



この稲荷大社は元明帝の和銅4(711)年に秦氏の秦伊呂巨が祀ったのが始まり。この伊呂巨の兄の都理は松尾大社を創建している。
秦一族は山背国の旧来からの名族である賀茂県主との間で婚姻関係を結び勢力を確固たるものにしていく。
このことは、「稲荷社神主家大西(秦)氏系図」に秦伊呂巨が賀茂建角身命24世賀茂県主
と記されていることからも窺える。





石山寺(大津_近江)

石山寺(大津_近江)
西国十三番 東寺真言宗の寺院。
京阪石山駅から少し歩く。丁度、お昼だったので門前のお店でざるそばを食す。
さらにぶらりと歩いてようやく石山寺。
石山寺は聖武帝(701-756)の勅願で天平勝宝元(749)年に、東大寺開山として知られる華厳宗の学僧であり橘諸兄とともに聖武帝を補佐した良弁(東大寺初代別当、689-773)によって開基。
浄土真宗中興祖、本願寺8世蓮如上人(1415-99)の生母が身分の低さのために、応永27(1420)年に大谷本願寺を去る時に蓮如上人に鹿の子の小袖を着せて絵を描かせたという、その小袖が安置されている。蓮如上人は寛正6(1465)年に比叡山延暦寺の衆徒の襲撃(寛正の法難)によって近江に逃れた際に石山寺で小袖を目にし涙したという。
本堂は最古の縣下木造建築。その他に鎌倉時代の建立である多宝塔、鐘楼がある。東大門、別名仁王門は三間一戸の八脚門、入母屋造、本瓦葺で建久元(1190)年建立、慶長年間(1596-1615)の大修復を経て鎌倉時代の特徴と桃山時代の特徴を併せ持つものとなっている。
御影堂は宝形造桧皮葺の持仏堂風の室町時代の建築物で良弁、空海、淳祐の遺影を安置。
また、境内の石山は天然記念物に指定されている。




[東大門]


[御影堂]


[鐘楼]


[多宝塔]


[本堂]
この本堂の「源氏の間」で紫式部が「源氏物語」を執筆したという。


[蓮如堂]

関蝉丸神社[下社](大津_近江)

百人一首で知られている蝉丸を祀る神社。
『後撰集』によると、蝉丸はこの神社のある逢坂の関近辺に住んでいた隠者だという。
一方、『今昔物語』を基本とした謡曲『蝉丸』によれば、醍醐帝(在897-930)の第四皇子であったが生まれながら盲目であったために逢坂の関に僧形で棄てたとされる。
事の真偽は定かではないが、嵯峨帝(在809-823)の代には上社に猿田彦を下社に豊玉姫を祀ったということが知られている。蝉丸神社には中社もあり合わせて3社あるが、蝉丸神社というと下社を指すことが多い。
この神社は冷泉帝(在967-969)の時代には全国の音曲諸芸道の神とされ、その道の人々は蝉丸神社の免許を受けることとされていたという。
境内には国の重要文化財の指定を受けている石燈籠(時雨燈籠)がある。
この燈籠は六角形であるが、基礎部分は単弁の蓮華座を堀っている。最上部の宝珠と請花は後の時代のものとされるも、中台に花入単弁蓮華が、そして六角形火袋の簡素さから鎌倉時代のものと考えられている。





滋賀県大津市逢坂1-15-6

若宮八幡神社(大津_近江)

古刹石山寺から膳所に戻る途中で立ち寄る。
京阪石坂線瓦ケ浜駅からすぐ見える所にあり、石山寺へ向かう時に非常に気になっていた。この神社は日本を揺るがした壬申の乱(672年)の3年後の白鳳4(675)年に天武帝が宇佐八幡の神託に基づいて宇佐八幡の子である仁徳帝を祀ったことに始まる。
初めは粟津の森八幡宮と呼ばれたという。
社殿は白鳳8(679)年に最初のものが建立され、この点で宇佐八幡宮に次ぐ古さを持つということになる。残念ながら当初の社殿は延喜17(917)年に全焼。再建されるも、寿永3(1184)年に源 頼朝と木曽義仲の間で闘われた粟津の戦いで全焼。源 頼朝により再建されたものの、室町時代の応仁の乱(1467年)で再び灰燼に帰した。その後の再建され現在に至っている。
膳所藩主本多家の崇敬を受け、その関係で表門は膳所城犬走り門を明治3(1870)年に膳所城取り壊しに際して移築されたもので市指定文化財となっている。




天孫神社(大津_近江)

蝉丸神社から大津駅に引き返し天孫神社に立ち寄る。
この神社はひっそりとしていたが、大津商人達によって京都の祇園祭に匹敵すると言われる程の規模を誇るとされるに至った湖国三大祭の一つ大津祭が行われるところ。
天孫神社は延暦年間(782-806)に琵琶湖畔に創建されたが、文明年間(1467-87)に現在の少し湖畔から離れた地に遷座したという。




建部大社(大津_近江)

近江一の宮。 本殿に日本武尊、相殿に天明玉命、権殿に大和三輪から天平勝宝7(755)年に大己貴命(大国主)を勧請して祀っている。
創建年代は明らかではなく、社伝に日本武尊の父、景行帝が日本武尊の死を悼み妃である布近江安国造の娘、多遅比売命とその子、稲依別王が住んでいた神崎郡建部郷に日本武尊を祀ったのが始まりとされる。
その後に、白鳳4(675)年に近江国府の所在地であった瀬田に遷座。
を祀るということで武門の信仰が厚く、平家によって伊豆国へと流される源 頼朝が永歴元(1160)年に配流の途上で参篭したことが平治物語によって伝えられている。







神宮寺(小浜_若狭)

奈良の東大寺二月堂へお水送りを行う寺院。
如何にも、御食国(みけつくに)の若狭に似つかわしい寺と言える。
まず、出迎えてくれるのが金剛力士像を配する鎌倉時代末期の仁王門(重要文化財)。そこから畑の中を緑の参道が続いているのが何とも美しい。
ここに至るまで多田寺から坂を越えトンネルを抜けてとやって来ただけになおさら美しさが目に焼きついた。
本堂は室町時代の建立で重要文化財。この本堂もシンプルで美しい。





多田寺(小浜_若狭)

木崎橋を渡って多田寺の標識に沿って進む。途中、多田神社に立ち寄ってから若狭八ヶ寺の一つである多田寺に。
多田寺の門を潜り拝観料を支払うと、鐘を右手を上にして鳴らすとお金に縁があるとのこと。左手を上にして鐘を突いてはいけないと再三注意されたので少し緊張して間違いなく右手を上にして鐘を突き鳴らす。
この多田寺には目の病に霊験があるという多田のお薬師さんこと本尊の木造薬師如来立像(重要文化財)のほか、創建の勅命を下した孝謙帝を模したとされる木造十一面観音菩薩立像(重要文化財)を拝観した。
写真撮影は禁止だけれども両立像を間近に、しかも説明付きで目に焼き付けることが出来た。




多田寺を後にしていよいよ西街道をトンネルを抜けて神宮寺へと向かう。

国分寺(小浜_若狭)

聖武帝の発願によって天平13(741)年に全国に造営された国分僧寺、尼寺を起源とする寺院。遠敷川と松永川に囲まれた地にあり、径45メートルの国分寺古墳の裾に塔、現在の釈迦堂には金堂、その前には中門、その後方には講堂があったことが確認されている。
薬師堂に鎌倉時代の木造薬師如来坐像(重要文化財)、釈迦堂には福井県最大の3メートル18センチの木造釈迦如来坐像(市指定文化財)がある。


多田神社(小浜_若狭)

小浜国宝廻りの旅で多田寺に向かう途上で立ち寄る。
古社の雰囲気満点の多田神社は天平神護2(766)年の創建。
大己貴命すなわち大物主命を祀る。
一説には、賀茂氏の同族とされる三輪氏祖であり大物主命の子孫である意富多多泥古命(大田々根子命)を祀るとも伝えられる。
この為に多田大明神、多太大明神とも称される。多田は大田々根子命に通じている。崇神帝の7年に大物主命の五世の孫の大田々根子命に大物主命を祀る大神神社の大神主に任ぜられたことが知られている。このことからすると、多田神社の祭神が大己貴命であることも頷ける。





若狭彦神社(小浜_若狭)

神宮寺を後にして地蔵盆の子供達の前を通り過ぎる。暑さで汗だくになったので「森の水PR館」で一服。サイダーをぐいと飲む。
そして、近くの若狭彦神社へ。
若狭彦神社は若狭彦大神(彦火火出見尊)を祀る若狭一ノ宮。
和銅7(714)年に遠敷郡下根来村白石に創建され、翌霊亀元(715)年に現在の地に遷座。この若狭彦神社から若狭姫神社が分祀され、若狭彦社を上社、若狭姫社を下社とし両社を合わせて若狭一ノ宮とするようになった。


明通寺(小浜_若狭)

真言宗御室派の寺院。
平城帝の代、大同元(806)年に征夷大将軍坂上田村麻呂が創建。
次第に伽藍を備えるも3回の火災に遭い当初の諸堂伽藍は残念ながら失われたとのこと。
しかし、単層入母屋造檜皮葺の本堂は鎌倉時代、後深草帝の正嘉2(1258)年の建立。
総高22.12メートルの聳え立つ三重塔も同じく鎌倉時代、亀山帝の文永7(1270)年の建立と歴史がある。
その他にも木造薬師如来坐像(藤原時代)、木造深沙大将立像(藤原時代)、木造不動明王立像(藤原時代)、木造降三世明王立像(藤原時代)という重要文化財に出会うことが出来る。




萬徳寺(小浜_若狭)

真言宗高野山派の寺院。
若狭彦社の前から明通寺に至る西街道のトンネルを抜ける前に萬徳寺橋を渡って若狭八ヶ寺で唯一の国指定名勝庭園、埋石式枯山水庭園(江戸時代初期)で知られる萬徳寺に。
若狭八ヶ寺の中ではひっそりとした部類に入る。
この寺は音無川の岸にあった極楽寺が兵火に罹り江戸時代初期に移って来たものという。その際に真言宗に改宗したとのこと。
重要文化財の木造阿弥陀如来坐像(平安初期)は極楽寺の本尊と伝わる。また、同じく重要文化財の絹本著色弥勒菩薩図像(鎌倉時代)、不動明王三童子像(鎌倉時代)がある。


若狭姫神社(小浜_若狭)

若狭八ヶ寺の締めくくりとして国分寺を後にして、若狭姫大神(豊玉姫命)を祀る若狭一宮下社の若狭姫神社に立ち寄る。私が道に迷ったのか自転車用の表示が無くなってしまっていたので道に迷う。
元正天皇養老5(721)年に上社である若狭彦神社から分祀したという。
豊玉姫命は上社に祀られている彦火火出見尊(山幸彦)との間に神武帝の父親に当たる鵜葺草葺不合神を産んだことで知られる。
そして、その出産が安産であったことから若狭姫神社は安産の神様として知られている。
鎮座地は東小浜駅のすぐ近く。




圓照寺(小浜_若狭)

妙楽寺から更に京都方面へ自転車を走らせると圓照寺に至る。
丁度、門前の集会所では地蔵盆の集まりの真っ最中。子供が主役なのでとても賑やか。
さて、圓照寺は大日堂谷にあった真言宗遠松寺が文安元(1444)年に移転したものという。
但し、移転時に真言宗から臨済宗に改宗し寺名も圓照寺として現在に至っている。
ここで、金色の木造大日如来坐像(重要文化財)に対面。


岩屋山妙楽寺(小浜_若狭)

高野山真言宗の寺院。
朝、小浜駅から自転車で東小浜駅方面へ南川を湯岡橋を渡って国宝廻りの旅へ。
その第一歩が妙楽寺。
湯岡橋の交差点は名田庄・京都方面から小浜へと向かう車の列が出来ていた。しかし、車が多く見られたのはその辺りまで。橋を越えてしまうと田んぼの中に自転車一台という状態。その中で、妙楽寺への案内板があるのが心強い。
妙楽寺は養老3(719)年に行基が木造二十四面千手観音立像(重要文化財)を造立し岩窟に安置したことに始まるという。
更に、延暦17(797)年に空海が小浜の地を訪れたときに堂宇を建立し岩屋山妙楽寺と名付けたとのこと。
こうした伝説を裏付けるように、木造聖観音菩薩立像、木造地蔵菩薩坐像(ともに平安時代,県指定文化財)、木造不動明王坐像(平安時代,市指定文化財)、本堂、厨子(ともに鎌倉時代,重要文化財)、絹本着色不動明王画像(南北朝時代,県指定文化財)、銅造懸仏(南北朝時代,市指定文化財)、如法経料足寄進札(室町時代,県指定文化財)、古若狭塗(江戸時代,県指定文化財)といった寺宝を誇る。




鳳聚山羽賀寺(小浜_若狭)




真言宗高野山派の寺院。
自転車でJR小浜駅からアプローチ。若狭八ヶ寺は東小浜に集中しているが、羽賀寺だけは小浜駅から4キロほどの所に離れて建つ。
霊亀2(716)年に行基が勅命を奉じて創建。
写真の本堂は、室町時代の文安4(1447)年建立の入母屋造檜皮葺で重要文化財。その本堂の中には、元正女帝の御影と伝わる木造十一面観音菩薩(平安初期)、仏師勝巌の手による木造千手観音立像(長寛3[1165]年)、木造毘沙門天立像(治承2[1178]年)が安置されている。

2004年8月22日(日)訪問。

金崎宮(敦賀_越前)




この一帯は、かつて金ヶ崎城があった所。
源平の戦いに際して、平通盛が木曾義仲と対峙するために陣を布いたのが始まりとされる。
また、南北朝時代、延元元(1336)年に後醍醐天皇の皇子である恒良、尊良両親王を守護した新田義貞が足利軍と戦った古戦場としても知られる。
新田義貞と弟の脇屋義助は気比社大官司気比氏治の招きによって両親王を奉って金ヶ崎に入る。しかし、足利方の越前守護斯波高経が包囲する。
これに対して、杣山城主瓜生保が斯波高経を討つために参戦を試みるも、今川頼貞によって途上で撃破され瓜生保自身の戦死という結果に終わり惨敗。
この中、新田義貞と脇屋義助は戦線を両親王を残して金ヶ崎城を脱出し起死回生を図る。ところが、この作戦は裏目に出る。
足利軍は城に総攻撃によって金崎城は落城。城に残っていた新田義貞嫡男の新田義顕と尊良親王は自害。逃れた尊良親王も足利軍によって捕虜となり殺害される。
その後、越前守護代甲斐常治と若狭守護斯波義敏との戦闘の場ともなった。
朝倉社が境内摂社としてあるが、これは織田信長が朝倉氏を攻めた時に、敦賀郡司朝倉景恒が敦賀城と呼ばれていた金ヶ崎城を守ったことに由来する。
こうした数々の戦闘の歴史を持つ古戦場は、明治26年に尊良親王を金崎山へ祀ったのが金崎宮の始まり。

2004年8月22日(日)訪問。

永賞寺(敦賀_越前)



敦賀にある曹洞宗の寺院。

天正17(1589)年から慶長5(1600)年まで敦賀城主であった大谷吉継の供養塔との伝承を持つ慶長14(1609)年造立の層塔がある。



敦賀市栄新町11-20

2004年8月22日(日)訪問。

気比神宮(敦賀_越前)


榁木造両部型本朱漆の鳥居(正保二年建立)
福井県敦賀市曙町11-68

2004年8月22日(日)、小浜への途中で立ち寄る

常高寺(小浜_若狭)



臨済宗妙心寺派の寺院。
京極高次の後室で織田信長の妹、お市の方の子のお初こと栄昌尼が寛永7(1630)年に槐堂和尚を開山として創建。
栄昌尼は寛永10(1633)年に没し同寺に葬られた。寺名は栄昌尼の法号による。

妙興寺(小浜_若狭)



日像により現在の心光寺の地に永仁2(1294)年に建立された日蓮宗寺院。
後に、空印寺横の現在地に移転。

空印寺(小浜_若狭)




曹洞宗寺院。
この地は康暦2(1380)年に日源が日蓮宗長源寺を営み、同地を大永2(1522)年に若狭守護武田元光が守護館として利用した。
また、京極氏が小浜を統治するようになってからも、慶長5(1600)年に雲浜に居城を構えるまでの居城、後瀬山城の麓にあたるために要衝となっていた。
その地に、京極忠高が父高次の牌所として泰雲寺を建立したのが現在の空印寺の直接の起源。
寛永11(1634)年に、小浜藩主酒井忠勝が父の忠利の戒名をとって建康寺と改名し、更に、忠勝の子の忠直が父に因む空印の名を寺名とした。


人魚の肉を食べて800歳まで生きたという八百比丘尼の入定洞穴

八幡神社(小浜_若狭)




鎌倉時代の初めに建立された、後瀬山界隈の旧市街に氏神を祀る古社。
若狭最大の秋祭り「放生祭」が9月14日、15日に旧市街12区競演で執り行われるという。

広峰神社(小浜_若狭)




素盞嗚尊、八王子、少将井天王を祀る西津地区の社。西津地区は下竹原区住民が小浜城築城に際して移住したのが起源。
そのために、例祭「祇園まつり」では西津と下竹原の氏子が神輿を西津漁港から船に乗せ小浜港まで運び広峰神社に奉納する。
また、この西津地区は8月23日の地蔵盆の行事でも知られる。

清明神社(敦賀_越前)



陰陽師安倍晴明が正暦年間(990-994)に境内に住み研究に勤しんだという。
織田氏と朝倉氏との戦いの折りに敦賀は戦火に焼かれるも清明神社の周囲は延焼を免れたことで防火の神として信仰をも集める。