ロマネスク(Romanesque)期

西ヨーロッパは9世紀から10世紀にかけて、北からノルマン人、東からマジャール人、南からサラセン人などの非キリスト教徒民族の侵入に悩まされるようになる。かつて、西ローマ帝国の滅亡の引き金を直接引いたゲルマン民族の打ち立てたメロビング王朝(486-751)、それを継ぐカロリング王朝(751-987)。その末裔である西フランク王国が同じゲルマンの血を引くノルマン人達の脅威に晒された。当時の西フランク王国には海軍はない。対するノルマン人達は河川を遡って攻めてくる。
やがて、ノルマン人に国家樹立の機運が高まる9世紀末から10世紀初めにかけて侵略は一段と激しさを増した。これに耐え切れなくなった西フランク王シャルルはノルマンの首領ロロに対してキリスト教改宗などを条件としてノルマンディーの地と妹を与える。
その後もノルマン人の西フランク王国への侵略は収まらなかったものの、ネウストリア辺境伯カペー家が防波堤となり、西フランク王国全土がノルマン人の支配下に置かれるという事態は回避される。そして、カペー家のユーグ=カペーがカロリング家断絶によってカペー王朝(987-1328)を樹立する。しかし、この時には王室に大きな力は既に無くなっており、ユーグ・カペーが細々とイル・ド・フランスの中だけで面目を保っていただけという有様。

このような中で大諸侯林立の封建制が出現。いわゆる中世が形成されていく。
そして、ノルマン人などの侵入がほぼ収まった11世紀後半から12世紀にかけて花開いたのがロマネスク文化。修道院復興において、バシリカ式を基本としつつも塔や聖堂を東西に配置するロマネスク式はトゥルーズのサン・セルナン大聖堂やいわゆる巡礼路聖堂に代表される見事な建築を現代に伝えている。修道院復興運動の主導したのは、ベネディクト修道院系クリュニー会とベルナルドゥスによるシトー会。この2つの会派がロマネスク美術を普及させる原動力となった。但し、シトー会はクリュニー会に比較すると質素な装飾を好んだと言える。