アルベルティ

Leon Battista Alberti(1404-72)。
ルネサンス期の建築家、画家、美学者。『絵画論』でマザッチョの中に古代藝術の復興を認め、更に単純に古代藝術の模倣に留まるべきではないとの主張を行った。この理論はフィレンツェに新プラトン主義の土壌馴らしをした。
ルネサンスの人らしく万能の人であり、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂のファザードの設計も手掛けている。

マザッチョの様式

トスカーナ地方の伝統的なジョット様式を基礎として線遠近法などの技法を駆使した様式。ジョット様式のマンネリズムに飽きていた人々に支持された。
線遠近法はブルネレスキの考案とされ、画面上の一定の高さに水平線を引き、そこに消失点を置き、画面上の全ての直交線を消失点に収束させるというもの。
ジョットは絵画の主題を聖書に求めた。マザッチョは、そこに徹底した写実を持ち込むことで、来たるべきイタリア・ルネサンスへの道を準備した。

カヴァリーニ

Pietro Cavallini(1273-1308-)。
プロト・ルネサンスにおけるローマ派の画家。アンジュー王家が統治するナポリに招かれ、サン・ドメニコ・マッジョーレ聖堂、カルロ二世(在位1285-1309)の王妃寄進のサンタ・マリア・ドンレジーナ聖堂のフレスコ画を手掛ける。古典的なビザンティン美術に軸足を置いた。代表作はナポリ以前のサンタ・マリア・イン・トランステーヴェレ聖堂モザイク画(1291頃)、サンタ・チェチェリア・トランステーヴェレのフレスコ画(1293頃)。
パロンキ(Parronchi)はジョットと『聖フランチェスコ伝』を制作したとする。

マザッチョ

Masaccio/Tommaso di ser Giovanni Mone Cassi(1401-1428/29)。
建築家ブルネレスキ、彫刻家ドナテッロから影響を受け、線遠近法と立体的肉体表現を絵画で実践。
代表作は線遠近法と明暗法を効果的に用いた史上初の絵画とされるフィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂ブランカッチ礼拝堂の『聖ペテロ伝壁画』(1425-28頃)。なお、この壁画はパニカーレとの共同であり、完成はリッピの手による。
美術史家ヴァザーリは、以後全ての画家はこの壁画を模写したと紹介している。

ドナテッロ

Donatello/Donato di Niccolo di Bardi(1386-1466)。
初期ルネサンスの代表的彫刻家。ギベルティに学び、ブルネレスキに触発され古代彫刻のスタイルをキリスト教的主題と融合させた。『聖マルコ』(1411-13)、オルサンミケーレ聖堂の『聖ゲオルギウス』(1411-25)などはその表れとも言える。
パドヴァで過ごした1443年から53年の間にはサント聖堂主祭壇の彫刻を制作している。さらに、フィレンツェで『洗礼者聖ヨハネ』(1457)を制作したことが知られている。又、古代以来の裸体立像『ダヴィデ』も制作し北イタリアに大きな影響を与えた。

ヴィンケルマン

古代美術を以て「理想の美」として規範とする新古典主義の火付け役となったドイツの美術史家。
ヴィンケルマンは『ギリシア藝術模倣論』(1755)、『古代美術史』(1764)において古代ギリシア美術を「高貴な単純さと静謐な威厳」を持つとし規範とすべきという論を展開した。これにはヘルクラネウム(1738)、ポンペイ(1748)の発掘が大いに影響している。
彼の主張はヨーロッパにたちまち広がり、ロマン主義を押しのけていく。
フランスではダヴィドが新古典主義を実践した。

ロマン派

ヴィクトル・ユーゴーにより「遅れて来たフランス革命」と定義された藝術運動。
フランスでは1810年代末から20年代にかけて展開される。宮廷による藝術がフランス革命(1789-)によって終わり、革命の担い手である中産市民のための藝術が求められる中で展開された。古典主義からは醜悪とされてきた主題の中にも「美」があるとした。そこには理性よりも感性を重視する考え方があったと言える。
ボードレールが「ロマン主義は感じ方の中にある」(『1846年のサロン』)としたのは将にこのことだろう。
ジェリコーやドラクロワが知られる。

初期ルネサンス

イタリアの小都市国家フィレンチェを中心に15世紀に開花した古代文化の復興運動。
その直接的幕開けは1401年のフィレンツェの洗礼堂のブロンズ扉のためのコンクールとされている。このコンクールには後に古代ローマ建築をもって中世建築を一新し、集中形式とバシリカ形式を復活させたブルネレスキも参加している。
コンクールはフィレンツェがミラノ公国に攻められるという政治的危機の中で開催された。つまり転換点におけるフィレンツェ市民の意識の覚醒が藝術の変化に火を点けたと言える。

山口大口費

『日本書紀』の白雉元(650)年10月の条に千仏像を制作したとして記録されている彫刻家。正確には、漢山口直大口(あやのやまぐちのあたいおおぐち)であり、応神帝の時代に、後漢霊帝の曾孫である阿知使主(あちのおみ)が一族を率いて来日したことに始まるとの伝承を持つ東漢氏(やまとのあや)の一族。
法隆寺金堂の『(木造)四天王』像である『広目天』『多聞天』『持国天』『増長天』のうち『広目天』の作者として光背の刻銘されている。
また、かつては「虚空蔵菩薩」と呼ばれ百済からもたらされたとされてきた『百済観音』は『四天王』と並べるように後世に移動させられていることや作風の点から見て山口大口費の作品と考えられている。
『百済観音』は、日本でのみ用いられる樟(くすのき)を用いていることから日本で作られたことが確認されたものであり、日本アルカイスム期における代表作とされている。

止利仏師

法隆寺金堂の『釈迦三尊像』(推古31[623].3)の作者として知られる人物。三尊像の光背裏面には司馬鞍首止利仏師(しばくらつくりのおびととり)とある。
また、日本書紀にも推古13(605)年4月に元興寺(法興寺=飛鳥寺)に丈六の仏像を運び込むときに仏像が金堂の戸よりも高くて搬入出来なかったのを搬入した人物としての紹介がある。
『元享釈書』によると止利仏師の祖父司馬達等は南梁(502-557)の人であり継体帝16(522)年に来日。また、父の多須那は『扶桑略記』によると百済鞍部多須那との記述があり仏像の制作に携わっていたことで知られている。
そして、この止利仏師こそは「日本彫刻史の最初を飾る偉大な作家であったと言わなければならない」(小林剛、『日本の彫刻--歴代名工を追って』、至文堂、1990年)
止利仏師の作品としては、安居院(飛鳥寺)にある通称『飛鳥大仏』こと『釈迦如来』(推古17[609])、日本美術史初期の傑作として明治期にフェノロサや岡倉天心によって再発見された法隆寺夢殿の『救世観音』、法輪寺の『虚空菩薩』などがある。

ピサネッロ

Pisanello/Antonio Pisano(1395頃-1455頃)。
北イタリアの国際ゴシックを代表する藝術家。師のジェンティーレの作風を受け継ぐが、後には国際ゴシック様式から一歩踏み出す。
作品の多くは散逸し、僅かにヴェローナにあるサンタナスタージア教会堂の『聖エウスタキウス伝』、『聖ゲオルギウス伝』壁画などがのこされているに過ぎない。
画家としてだけではなく、古代風のメダルの制作でも知られる。

マルティーニ

Simone Martini(1284-1344)。
シエナ派の画家であり、ドウッチョやジョットそしてゴシック様式の影響が見られる1315年のシエナ市庁舎の『荘厳の聖母』を振り出しに、ナポリのアンジュー家、ピサ、オルヴィエートで活躍。
1325/26年にはアッシジのサン・フランチェスコ聖堂下堂サン・マル・ティーノ礼拝堂のフレスコ画を制作し、一つの頂点を迎える。
その後、1340年代末に教皇庁によりアヴィニョンに招かれ宮廷画家として生涯を終えた。彼によりシエナ派の様式が北方ゴシックと融合し国際ゴシックへの扉が開かれた。

カンディンスキー

「カンディンスキー(1866-1944)というと、ロシア生まれの画家であり、近代絵画において純粋抽象画の実践者として知られているわね」
「カンディンスキーは1866年に生まれ幼少期をオデッサで過ごした。彼の両親はピアノとシタール(zither)を演奏し、カンディンスキー自身はピアノとチェロを早くから演奏していたことが知られている。
つまり、画家として出発したわけではないんだね。
そういうところが彼が抽象画を推し進めていく上で役立ったのかもしれない。これが絵画なんだっていう枠を越えることが出来るという意味でね」
「1886年に名門モスクワ大学に入学し法律と経済を学ぶ。それから法学部で教鞭もとっているのよね。
それが1895年にフランス印象派展でモネの『ジヴェルニーの干草(Haystacks at Giverny)』を見て衝撃を受ける。この時に、パンフレットの解説を見なかったら干草とは気付かなかったと言い、モネの絵画が果たして絵画なのか思い悩む。
なんであれが絵なんだ〜ってね」
「後には自分がもっと凄いものを描いていくんだってことも知らずに。
でも、衝撃度の大きさは、カンディンスキーがその後まもなくミュンヘンへ画家修業のために旅立ったということからも知ることが出来るというもの。
そして、カンディンスキーの画風はカンディンスキー自身が頭を悩ました印象派の画風よりもさらに一層抽象的なものになっていくわけだ」
「彼はめきめきと力を発揮したちまち画壇を圧倒するようになっていく、そして彼独自の画風を探求していく。
特に、彼がドイツ 表現主義のフランツ・マルク(Franz Marc[1880-1916])とともに結成したドイツのミュンヘン(Munich)で青騎士派(Der Blaue Reiter[1911-14])と呼ばれる抽象表現主義運動は大きな影響を及ぼしたわ」
「彼の影響はヨーロッパだけには留まらなかった。
彼の評判は新しい芸術の中心地である米国でも確立し、やがて鉱山王ソロモン・R・グッゲンハイム(Solomon R. Guggenheim[1861−1949])と知己を得る。
グッゲンハイムというと現代美術の収集で知られ、グッゲンハイム美術館にそのコレクションがあるよね。
その後、1933年にカンディンスキーはドイツを離れフランスはパリ郊外のヌイイ(Neuilly)に本拠地を移す。
これ以降も勢力的に描き続ける」
「それって凄いことよね。
死ぬまで描き続け、最期まで新しい抽象表現を追及していったことは残された作品からも伺えるし。
そうした彼の熱意が熱狂的な支持者を集めるということになったわけだし、事実、彼のアトリエにはアルベルト・マニェッリ(Alberto Magnelli[1888-1971])、ジャン・アルプ(旧姓ハンス・アルプ,Jean Arp)など若手が足繁く通っていたというわ」

ドゥッチョ

シエナ派の創始者。
ヴァザーリによるとチマブーエの弟子。チマブーエと同様にビザンティン美術の影響を受ける。しかし、それに留まらずゴシックの影響も認められる。
シエナ大聖堂主祭壇の『マエスタ(1311)』が作風を現代に伝える。

ロレンツェッティ兄

Pietro Lorenzetti(1280頃-1348)
弟とともにシエナ派の代表的画家。
アッシジのサン・フランチェスコ聖堂下堂の『キリスト受難伝』(1326-29)の連作壁画はジョットの影響を受けていることが知られている。
これはジョットが同じくアッシジのサン・フランチェスコ聖堂の上堂で1290年代に『聖フランチェスコ伝』『旧約新約聖書の諸場面』という壁画を制作していることによる。
但し、ピエトロ自身はドウッチョのもとで修業したとされている。