「カンディンスキー(1866-1944)というと、ロシア生まれの画家であり、近代絵画において純粋抽象画の実践者として知られているわね」
「カンディンスキーは1866年に生まれ幼少期をオデッサで過ごした。彼の両親はピアノとシタール(zither)を演奏し、カンディンスキー自身はピアノとチェロを早くから演奏していたことが知られている。
つまり、画家として出発したわけではないんだね。
そういうところが彼が抽象画を推し進めていく上で役立ったのかもしれない。これが絵画なんだっていう枠を越えることが出来るという意味でね」
「1886年に名門モスクワ大学に入学し法律と経済を学ぶ。それから法学部で教鞭もとっているのよね。
それが1895年にフランス印象派展でモネの『ジヴェルニーの干草(Haystacks at Giverny)』を見て衝撃を受ける。この時に、パンフレットの解説を見なかったら干草とは気付かなかったと言い、モネの絵画が果たして絵画なのか思い悩む。
なんであれが絵なんだ〜ってね」
「後には自分がもっと凄いものを描いていくんだってことも知らずに。
でも、衝撃度の大きさは、カンディンスキーがその後まもなくミュンヘンへ画家修業のために旅立ったということからも知ることが出来るというもの。
そして、カンディンスキーの画風はカンディンスキー自身が頭を悩ました印象派の画風よりもさらに一層抽象的なものになっていくわけだ」
「彼はめきめきと力を発揮したちまち画壇を圧倒するようになっていく、そして彼独自の画風を探求していく。
特に、彼がドイツ 表現主義のフランツ・マルク(Franz Marc[1880-1916])とともに結成したドイツのミュンヘン(Munich)で青騎士派(Der Blaue Reiter[1911-14])と呼ばれる抽象表現主義運動は大きな影響を及ぼしたわ」
「彼の影響はヨーロッパだけには留まらなかった。
彼の評判は新しい芸術の中心地である米国でも確立し、やがて鉱山王ソロモン・R・グッゲンハイム(Solomon R. Guggenheim[1861−1949])と知己を得る。
グッゲンハイムというと現代美術の収集で知られ、
グッゲンハイム美術館にそのコレクションがあるよね。
その後、1933年にカンディンスキーはドイツを離れフランスはパリ郊外のヌイイ(Neuilly)に本拠地を移す。
これ以降も勢力的に描き続ける」
「それって凄いことよね。
死ぬまで描き続け、最期まで新しい抽象表現を追及していったことは残された作品からも伺えるし。
そうした彼の熱意が熱狂的な支持者を集めるということになったわけだし、事実、彼のアトリエにはアルベルト・マニェッリ(Alberto Magnelli[1888-1971])、ジャン・アルプ(旧姓ハンス・アルプ,Jean Arp)など若手が足繁く通っていたというわ」