高皇産靈命・武甕槌男命・大國魂命・市杵嶋姫命・崇徳天皇、大山祗命・八重言代主命を祀る。 卯辰山に鎮座していた鬼門を守護する毘沙門天(現宇多須神社奥社)を境内に遷座したために毘沙門さんとも呼ばれる。 浅野川の河辺から掘り出した古鏡に卯と辰の紋様があり卯辰神を祀ったことが発祥と伝えられる。しかし、慶長4(1599)年に藩祖前田利家公が没した後に、利長公が高岡の海老坂八幡宮(現物部八幡宮)と氷見阿尾の榊葉神明宮とを、この地に併祀した。 そのために、当時、この地に既に祀られていた卯辰社は首座を利家公を祀る卯辰八幡宮に譲ることになったという。 その後、明治維新時の混乱によって、金沢城から距離のある卯辰八幡宮は荒廃を極めることになる。それを憂いた旧加賀藩士によって、明治6(1873)年に金沢城出丸金谷御殿跡地への遷座が敢行される。現在の尾山神社がこれである。 その結果、卯辰社が再び宇多須神社となって蘇った。 本当に歴史というのは面白い。 2003.6.29訪問。 駅前からバスに乗って、近江町市場のある武蔵ヶ辻を経て香林坊へと至る途上に神門を見ることが出来る。 慶長4(1599)年に2代藩主利長によって、現在も寺院群で知られる卯辰山に創建されたのが始まり。名称も当初は卯辰八幡宮(現宇多須神社)だった。その後、明治6(1873)年に現在の地に移され、名前を尾山神社と改めた。 藩祖前田利家公を祀ってあるものの、徳川家康を東照大権現として祀る江戸幕府への配慮からか華やかという印象はない。 但し、この神社の神門は非常な存在感のオーラを放っている。 このように、洋風の門を持つ神社というのは全国でも、ここ尾山神社だけなのではないだろうか。神門は、金沢総区長であった長谷川準也と大塚志良兄弟を発起人として、明治8(1875)年にオランダ人技師ホルトマンの設計で、津田吉之助が建立したものであり3層造りとなっている。外見は和漢洋の3様式折衷と見えるも、初層の3連アーチの骨組は完全な木造の日本様式というから驚く。 そのせいなのだろうか、神社という古式に則った建築様式をどちらかというと重んじる場所に、洋風の門を設けるという建築当時は画期的であったろう構図も、少しも嫌味なところがない。 思いを巡らすに、前田利家公も織田信長公に見出された頃、歌舞伎(傾き)者として知られたという。その歌舞伎具合も、また尾山神社の和洋の取り合わせ同様に意外としっくりとくるものだったのではあるまいか。 2003.6.28訪問。神門は重要文化財に指定されている。 仁和4(888)年に宇多帝創建の仁和寺は、明治維新まで皇族が住職の地位に就く門跡寺院として真言密教を伝える。 京福電鉄の御室駅から真正面に見える二王門は江戸期の作で重要文化財に指定されている。 その二王門内には迫力満点の仁和寺仁王像が睨みをきかせている(写真は吽形像)。 京都府京都市右京区御室大内33番地 2003.3.7訪問 天正11(1583)年に前田利家公が金沢城築城して以来の中流武士達の町並みがそのままに残っているのが長町武家屋敷。 直ぐ近くには繁華街である香林坊があるというのに長町は喧騒からは無縁。 そもそも、長町という名称は長(なが)氏の屋敷があったことに由来するものという。 下の写真のような家々が軒を連ね、しかも、城下町の街並みよろしく曲がりくねっており、遠くを見通せる道はない。金沢では、他藩とは異なり下級武士も長屋ではなく一軒家に住んだというが、甲州流兵法で築かれた町並みは城の防衛を主眼としたものだったに違いない。1000坪以上の1300石の野村家、400坪ほどの550石の高田家などは内部が公開されており、当時の家の造りを楽しむことが出来る。 その他の家々も、明治維新により、かつての武士階級は去ったとはいえ、新しい家主の方々が伝統的家屋をそのままに現代に引き継いで下さっている。 そのお陰で、昔を偲ぶことが出来る。 2003.6.28訪問 武家屋敷の名残を色濃く残す長町を後にして、足軽資料館の前を曲がる。 少し霧雨が降ってきたものの、傘を差すほどではない。 しばらく歩くと、鞍月用水が見えてくる。 地図では、その鞍月用水の傍に貴船神社が鎮座していることになっている。 さて、その名からして、どのような神社であろうかと、いろいろと想像を巡らす前にお社が目の前に見えてくる。 京都の貴船神社の末社であるという金沢の貴船神社。意外にも小さい。境内と呼べる場所に人が二人と立ってはいられないだろうという程。 縁切りと縁結びの両方に利益があるという、その社は、しかし、異界との入り口を金沢の現代の地である香林坊と歴史の地である長町の境目に開けているような錯覚をもたらす。 2003.6.28訪問 |