武蔵七党の一つ児玉党.
児玉氏は,その名の通り,児玉党のうちでも筆頭格,すなわち本宗家の家柄.
児玉氏の祖は藤原北家流・藤原伊周の家司だった有道惟能.『続日本後紀』によると,有道氏は元は大部宿禰を称していたとされている.さて,恋愛沙汰から花山法皇を襲撃した長徳の変[996]で藤原伊周が大宰権帥として実質的に配流となると,有道惟能も武蔵権介に任ぜられ武蔵国に下向することとなる.有道惟能の武蔵権介の地位はすぐに解かれたようであるが,そのまま武蔵国に留まり,その子の惟行は父が開墾した児玉の地に土着することになる.惟行が実質上の児玉氏の祖と言える.
武蔵国児玉郡[埼玉県児玉郡神川町阿久原].
児玉惟行の子の弘行は1083[永保3]年に勃発した後三年の役に源義家の副将軍として参戦したとの伝承が残されている.弘行の子の児玉家行は武蔵権守を称し児玉氏の勢力を拡大させた.その嫡男の家弘は児玉郡大寄郷若泉庄栗崎に本拠地を移し庄氏を名乗るようになった.以降,児玉氏の本宗家は庄氏ということになっていく.次男の家遠は塩谷の地を相続し塩谷氏を,三男の親家は富田を相続し富田氏を名乗った.庄氏は庄小太郎頼家[-1184]は源範頼に従い,一ノ谷の戦いで討ち死に.庄氏は弟の庄三郎右衛門家次が継ぎ,恩賞として備中草壁荘地頭職を得ると栗崎の地を後にした.残された栗崎の地を任されたのが,その弟の四郎左衛門尉時家であり,彼が本庄氏を名乗ることとなる.
以上の他にも,児玉一族は,真下氏・今井氏・阿佐美氏・四方田氏・久下塚氏・北堀氏・牧西氏と分流していった.その中で,児玉氏を名乗り続けた一族もあった.
庄氏,本庄氏,塩谷氏,富田氏,真下氏,今井氏,阿佐美氏,四方田氏,久下塚氏,北堀氏,牧西氏