出自 | 肥後菊池氏 |
発祥地 | 肥後国[熊本]菊池郡赤星 |
備考 | 菊池武房[1245-1285]の弟・有隆が赤星を称したのが始まり.有隆の弟・経俊も赤星を名乗った.この名乗りは,蒙古襲来のときの有隆の衣が血で赤い星のように染まったことを知った亀山天皇が「汝の姿はまさに赤星の如し.菊池を改めて赤星と称せよ」といったことに由来すると伝わる. 室町時代,赤星氏は隈部氏,城氏と並んで菊池三家老家の一つ.それ以降は,隈部氏・鹿子木氏・田島氏・木野氏とともに菊池氏五家老をなした. 菊池本家が衰退すると,大友宗麟に接近した赤星氏は龍造寺氏に接近した隈部氏と対立.1559[永禄2]年に合勢川の戦いで赤星親家は隈部親永に敗北.親家の子・赤星統家は龍造寺氏に降伏し,叔父・合志親賢の合志城に落ち延びた.しかし,反龍造寺の態度を改めず,のちに島津氏の配下となり,1584[天正12]年の沖田畷の戦いで島津軍に加わり龍造寺氏を攻めている. 旧領回復を願うも,豊臣秀吉の九州平定後には所領没収. 赤星統家の娘は筑後十五城の筆頭大名・蒲池鎮漣[1547-1581]に嫁ぎ,柳川城落城後は大友氏家臣・朽網鑑房の妻となった蒲池徳子の母となっている.また,加藤清正に仕えた加藤十六将の一人・赤星親武は統家の子という.赤星親武は大坂夏の陣で大阪方として戦い討ち死に.その子・道重は島原の乱の一揆勢指導者・天草十七人衆の一人として原城で討ち死にした. |
関連氏族 | 菊池氏,城氏,蒲池氏 |