フランク王国の建国

ゲルマン諸王国は建国後200年から300年で多くは瓦解
 これに対して、フランク族はライン河東岸から長距離移動することなく小部族単位で旧西ローマ帝国の北辺の北ガリアに定着
 フランク王国
 486年:メロヴィング家クローヴィス(Clovis;481-751)による諸部族統一==>建国
 496年:対アラマン戦の後に、キリスト教正統派アタナシウス派に改宗することでローマとの関係強化
 6世紀:ガリア東部のブルグント(Burgund)王国を倒し、東ゴート王国と対峙

フランクの文化はギリシア=ローマの石造建築文化とは異なり工芸品中心
イタリアとアイルランドを経由して修道院制度がもたらされたものの、現存建築はポワティエ礼拝堂、フレチェス礼拝堂、グルノーブル地下墓地など寡少
メロヴィング朝写本:コルビー修道院の「鳥魚文」

フランク王国とローマ教会
 8世紀:分割相続により弱体化したメロヴィング王家に代わって宮宰のカロリング家が台頭
 732年:「トゥール・ポワティエの戦い」でカロリング家のカール=マルテル(Karl Martell)がウマイヤ朝軍(イスラム教徒)を撃退。これによって、ローマ教会がカロリング家に急接近
 751年:カール=マルテルの子、ピピン(Pippin III)がローマ法皇ザカリアスより王位承認==>カロリング朝(751-987)成立
 754-756年:ピピンの寄進(donatio Pippin)。ピピンがロンバルド族を倒しラヴェンナ(Ravenna)地方をローマ教皇ステファヌス2世に寄進