フランク王国の分裂

■分割相続
 ○カール大帝(Karl , Charlemagne;在768-814)の死後、孫のロタール1世、ルードヴィッヒ2世、シャルル2世による分割相続の問題が発生しフランク王国は分裂していく
 ○843年:ヴェルダン(Verdun)条約。カール大帝の子のルイ1世の死後、フランク王国を中部フランク、東フランク、西フランクに分割。
 ○870年:メルセン(Mersen)条約。帝号を保持していたロタール1世(Lothar I)が薨去すると中部フランクを東西フランクに分割。

■中部フランク--->イタリア
 ○875年:カロリング系王統断絶によりイタリア半島は諸勢力割拠

■東フランク---->神聖ローマ帝国---->ドイツ
 ○911年:カロリング系王統断絶によって選挙王制へ
 ○フランコニア朝:フランコニア公コンラート(在911-918)
 ○ザクセン(Sachsen)朝:サクソニア公ハインリヒ1世(在919-936)が創始
 ○オットー1世(Otto;在936-973)
 ザクセン朝第2代東フランク王。ベーメン・イタリア討伐で勢力拡大。
 ハンガリー人の祖であるアジア系マジャール人(Magyars)、スラブ族制圧。

■神聖ローマ帝国(Holy Roman Empire[962-1806])
 ○962年:オットー1世がローマ法皇ヨハネス12世(Johanes)より戴冠。
 ○ここに神聖ローマ帝国が始まり、フランス革命の後にナポレオン1世によって滅ぼされる1806年まで存続。

■西フランク
 ○987年:カロリング系王統断絶
 ○987年:イル・ド・フランスのパリ伯ユーグ=カペー(Hugues Capet)によってカペー王朝(987-1328)樹立。但し、カペー家は1地方領主に過ぎず、西フランク内には大諸侯50家が並び立った。