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[三十年戦争] |
背景
ドイツ宗教内乱:神聖ローマ皇帝カール5世(Karl V;1500-1558)がローマ=カトリック側に立ち帝国内のルター主義者を弾圧。ルター派諸侯は反発しシュマルカルデン同盟結成。
1555年:神聖ローマ皇帝カール5世(Karl
V;1500-1558)によるアウグスブルグの宗教和議によってドイツの宗教内乱が終息。但し、この和議は諸侯の信教の自由を認める内容であり、これによってドイツは政治的に分裂。カール5世は弟のフェルディナンド1世に神聖ローマ帝国皇帝位を息子のフェリペ2世にスペイン王位を継がせて退位(ハプスブルク家の分裂)。
発端
1618年:オーストリア・ハプスブルク領ベーメン地方の新教徒が弾圧に耐え兼ねて叛乱。これに他のドイツの新教徒領主が参加し内乱はドイツ全土を包む。
ベーメンの叛乱自体は名将ヴァレンシュタイン(Wallenstein;1583-1634)が鎮圧。
両陣営
新教徒側:デンマーク王クリスチャン4世。スウェーデン王グスタフ・アドルフ+フランス。
カトリック側:神聖ローマ帝国皇帝+オーストリア・ハプスブルク家。
ファルツ・ボヘミア戦争(1618-25)
1608年:新教徒諸侯が福音同盟(プロテスタント同盟)結成。
1609年:カトリック側がカトリック同盟結成。
ベーメン(ボヘミア)地方の福音同盟支部で衝突。
1617年:衝突が内乱状態に発展。
1618年:「プラハ城窓外放擲事件」。プラハ城で新教徒代表がハプスブルク家の国王参議官であるヴィレーム・フルム・スラヴァタ、ヤロスラフ・ボジタ・マルティニッツ両伯爵と書記官1人を窓の外に投げ出す(3人とも無事)。
トゥルン伯率いる新教徒軍が蜂起。
1619年:ファルツ選帝候フリードリヒ5世(カルバン派)をボヘミア王として招聘。
新教徒ルター派のザクセンがボヘミアへの宣戦布告したことで新教徒側の結束が破れる。これに乗じて神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント2世が反攻。
1620年:「ビーラ・ホラの戦い」。ティリー辺境伯が率いるカトリック連合軍がボヘミア新教徒軍を破る。
1622年:ファルツでティリー辺境伯軍を破るも新教徒側は連敗を重ねる。バイエルン大公マクシミリアンがファルツを統治し新教徒を強制的に改宗。
デンマーク戦争(1625-29)
1624年:神聖ローマ皇帝フェルディナント2世配下のヴァレンシュタインが新教徒戦の戦功によりフリートラント公に。1629年にはメクレンブルク公になる。
1625年:デンマーク王クリスチャン4世がルター派とカルバン派ドイツ諸侯の要請によってザクセン侵攻。
1626年:傭兵隊長ヴァレンシュタインが「デッサウの戦い」で新教徒軍を破る。
続いて、総司令官ティリー辺境伯が「ルッターの戦い」でデンマーク王クリスチャン4世を破る。
1627年:デンマーク王クリスチャン4世、ユトランド半島に撤退。
1629年:神聖ローマ皇帝フェルディナント2世が「回復令」を発布しアウクスブルクの和議以後の新教徒権限を無効化。続いて「リューベック講和条約」が締結されデンマークはドイツ領を失う。
スウェーデン戦争(1630-1635)
1930年:スウェーデン国王グスタフ・アドルフが反ハプスブルク政策を採るルイ13世治下のフランスの宰相リシュリューの支援を受けてポンメルン上陸。しかし、ドイツ側のポンメルン、ブランデンブルク、ザクセン侯の積極的参軍なし。
1631年:ティリー辺境伯の皇帝軍がマクデブルクを攻略。スウェーデン国王グスタフ・アドルフの軍とも対戦。「ブライテンフェルトの戦い」でティリー辺境伯が敗走。
1632年:「レヒ河畔の戦い」でスウェーデン軍がティリー辺境伯の皇帝軍を撃退。辺境伯は戦時の傷がもとで死亡。
守旧派の反発で解職されていたヴァレンシュタインが総司令官に復帰。
同年、「リュツェンの戦い」でヴァレンシュタイン敗れるも、スウェーデン国王グスタフ・アドルフが戦死。
ザクセン・ワイマール公ベルンハルトが新教徒軍の指揮を採りバイエルンに侵攻。
1634年:通謀疑惑によって神聖ローマ帝国軍総司令官ヴァレンシュタイン解任。その後、暗殺される。
同年、「ネルドリンゲンの戦い」でザクセン・ワイマール公ベルンハルト敗北。
1635年:「プラハ講和」締結。
フランス戦争(1635-1648)
1636年:スペイン・ハプスブルク家に対してフランスが宣戦布告。先のデンマーク戦争で黒幕であったフランスが全面に出てきたことで、三十年戦争は宗教色が一気に薄まる。当初はフランス・スウェーデン・ドイツ新教徒諸侯連合軍が優勢。
1638年:「ラインフェルデンの戦い」でザクセン・ワイマール公ベルンハルトが神聖ローマ帝国軍を撃退。
1643年:「ロクロアの戦い」でフランス軍がスペイン軍を撃退。
1644年:「フライブルクの戦い」でフランス軍がバイエルン軍を撃退。
1645年:「ネルトリンゲンの戦い」で神聖ローマ帝国軍敗退。ミュンスターとオスナブリュックで新教徒とカトリック双方の代表による和平交渉が開始されるも、神聖ローマ皇帝フェルディナント3世が降伏を拒否し水泡に帰す。
1647年:バイエルン選帝侯マクシミリアン、中立を犯して神聖ローマ帝国軍に参軍。
1648年:スウェーデン軍がプラハをフランス・スウェーデン連合軍がミュンヘンを包囲したのに続いて、「ランスの戦い」でフランス軍が大勝。
終結 ===> ウェストファリア条約
1641年:神聖ローマ皇帝、フランス王、スウェーデン王が1642年からウェストファリアでの講和会議開催を取り決め。
1644年:ドイツ領邦66ヶ国、フランス、スペイン、スウェーデン、 ネーデルラントなどの代表が集まりようやく会議開催。
1648年:「ウェストファリア条約(Treaty of Westphalia)」締結。この条約の内容は次の通り。
[1]ドイツ国内の諸侯の独立状態の容認。
[2]ドイツ国内においてルター派と共にカルヴァン派に信仰の自由。
[3]スイスとネーデルラント連邦の独立。
[4]ドイツ領アルザス地方のフランスへの割譲。
[5]スウェーデン王国のドイツ領保有容認。
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