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[フランス絶対主義]
ルイ13世時代
1610年:ルイ13世即位(1601-43;在1610-43)。
ブルボン王朝の2代目。父王アンリ4世の暗殺により即位。
当初は母親のマリー・ド・メディシスが摂政。リュシュリューが宰相。
ドイツの30年戦争(1618-1648)に介入してフランスの領土拡大。
1615年:スペイン王女アンヌと結婚。
1616年:度々叛乱を起こしたコンデ公が逮捕されバスチーユに投獄。
1617年:母親のマリー・ド・メディシスの寵臣イタリア人コンチーニがルーブル宮で暗殺。
1619年:母親のマリー・ド・メディシスが叛乱。「ポン・ド・セーの戦い」でルイ13世軍に敗れる。
1622年:リシュリューが枢機卿就任。
1624年:リシュリューが宰相に(在-42)。リシュリューは一時、ルイ13世と母親のマリー・ド・メディシスとの間の政争に巻き込まれて失脚していた。
1628年:ユグノー最後の拠点のラ・ロルシェ陥落。
1630年:母親マリー・ド・メディシスと弟のガストン・ドルレアン(Gaston d'Orle'ans;1608-1660)の陰謀発覚。母親は亡命。
1631年:「マントヴァ継承戦争」が終結しフランス軍と皇帝軍がイタリアから撤退。
1635年:ドイツ30年戦争に参戦。
1642年:リシュリュー死去。
1643年:ルイ13世薨去。

フランス絶対主義時代/ルイ14世時代
1643年:ルイ14世即位(在1643-1715)。
ジュール・マザラン(Jules Mazarin;1602-1661)が宰相。マザランはイタリア人枢機卿。1634年にフランスに赴いた時にリシュリューに請われ39年にフランスに帰化。41年に枢機卿就任。リシュリューとルイ13世死後は摂政のアンヌ・ドートリッシュ大后のもとで実質的に宰相。この当時、フランスはドイツの30年戦争に介入しドイツ皇帝軍とスペイン軍との戦争の真っ最中。
その戦費調達のために王室の権限強化と国内諸侯の権力縮小がマザラン宰相のもとで進められる。
1648年:「フロンドの反乱」。宰相マザランの強引な手法に対してパリ高等法院が異議。当初は戦争中ということもあって、新規課税には高等法院の同意を得ることで妥協。
しかし、30年戦争でアンギャン公コンデ親王率いるフランス王国軍が勝利を重ねると宰相マザランは態度を一変させパリ高等法院司法官ブルーゼルを逮捕。
この動きに対してパリ市民が蜂起。
フロンドというのはパチンコのような道具でパリ市民はこれを武器に反乱した。宰相マザランがブルーゼルを釈放したことで反乱は収束。
1659年:「ピレネー条約」によってスペインが敗北。フランスとスペインの国境がピレネー山脈に確定。合わせてルイ14世とスペイン王女マリー・テレーズの結婚が決まる。
1661年:マザラン死去。ルイ14世の親政が始まる。
1665年:マザランの側近だったジャン・バティスト・コルベール、財務総監就任。
1667年:「遺産帰属戦争(ネーデルラント戦争/フランドル戦争)」。ルイ14世がスペイン領ネーデルラントのフランス帰属を主張して侵攻。
1672年:オランダ戦争(第3次英蘭戦争;-1678)勃発。フランス軍がネーデルラント諸州に侵攻。
1678年:「ネイメーヘンの和約」でフランスとオランダが和約締結。オランダ戦争終結。
1683年:コルベール死去。
同年、フランス軍がスペイン領ネーデルラントに侵攻。スペイン軍と交戦。
1684年:神聖ローマ皇帝レオポルド1世との間で休戦協定締結。
1685年:ナントの勅令を廃止しプロテスタントの禁止に踏み切る。
1688年:「ファルツ戦争(アウグスブルク同盟戦争)」勃発。1685年にドイツのファルツ選帝侯カールの死去に伴い家系が断絶すると、ルイ14世が弟の妃のシャルロット=エリザベートの相続権を主張。これに対して、オラニエ公ウィリアムがドイツ皇帝、スペイン、バイエルン選帝侯、ザクセン選帝侯とアウグスブルク同盟を結成。1688年にフランス軍がアウグスブルク同盟領に侵攻。アルザス地方を占領。
1697年:「ライスワイク条約」締結。この条約でファルツ戦争終結。フランスはアルザスを確保するも他の占領地は放棄。一方、オラニエ公はウィリアム3世としてイギリス国王の資格を承認された。
1701年:「スペイン継承戦争」勃発。スペイン王カルロス2世の死去に伴いスペイン王家が断絶。ルイ14世はカルロス2世の姉のマリー・テレーズとの間に皇太子ルイ(ルイ15世)がいたためスペイン王家の継承を主張。実際にはルイの孫のアンジュー公フィリップ(フェリペ5世)にスペイン王家を継承させる。
これに対して、カルロス2世のスペイン・ハプスブルク家とは遠戚に当るオーストリア・ハプスブルク家のレオポルド2世も継承権を主張し息子のカールにスペイン王家を継がせようと画策。イギリス、オランダを巻き込んでの戦争となる。
1713年:「ユトレヒト条約」によってスペイン継承戦争終結。イギリスはアン女王戦争で勝ち取った北米植民地とジブラルタルの領有、オーストリアはスペイン領ネーデルラントとナポリおよびミラノをフランスはフェリペ5世の王位継承を承認された。
1715年:ルイ14世薨去。