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[江戸後期(宝暦・天保年間)] |
(位:1745-1760)
1745年:第9代将軍就任。
田沼意次、本丸付きの小姓となる。
1758年:清水家創設によって田安家、一橋家を合わせた御三卿が成立する。
この年、田沼意次、1万石の大名に取り立てられる。
1759年:山県大弐(1725-1767)、『柳子新論』で尊王論を説き幕政批判。
1766年:「明和事件」。上野小幡藩織田家家老吉田玄蕃と親交のあった山県大弐が吉田と対立する勢力から幕府転覆の讒訴を受け藤井右門とともに逮捕、処刑される。
(位:1760-1786)
1760年:第10代将軍就任。
家重の長子。
1765年:鈴木春信が錦絵を始める。
1767年:田沼意次、側用人となる。
1771年:与謝蕪村と池大雅が「十便十宜図」を描く。
1772年:田沼意次、老中就任。
1775年:米沢藩で上杉鷹山治憲が藩政改革を開始。
1782年:「天明の大飢饉(-87)」
1784年:田沼意次の次男で若年寄の意知が江戸城中で佐野政言に刺殺。
1786年:将軍徳川家治薨去。
田沼意次、老中罷免。
(位:1787-1837)
1787年:第11代将軍就任
同年、徳川吉宗の孫で白河藩主松平定信が老中就任。「寛政の改革」が始まる。
同年、田沼意次、蟄居を命じられ相良藩5.7万石所領没収。相良城は破却、田沼家を継いだ孫の意明が奥州下村藩に移封。
1789年:「棄損令」により旗本・御家人の借金帳消し。
米の備蓄などを定めた「囲い米の制」を出す。
同年、「尊号一件」事件発生。光格帝(位1779-1817)の実父閑院宮典仁親王への太上天皇の尊号宣下の同意を幕府に求めるも松平定信は皇位に就いた経験のない人物への太上天皇すべきではないと拒否。再度尊号宣下を要請した武家伝奏らも処分。
その後、将軍家斉が父の一橋治済を大御所としようとしたことにも同様の理由で反対。
1790年:長谷川平蔵の提言により「人足寄場」を江戸の石川島に設立。
1791年:災害基金の性格を持つ「七分積金の制」が出される。
1792年: 林子平、「海国兵談」や「三国通覧図説」などの絶版と蟄居を命じられる。
同年、ロシアのラクスマンが漂流民・大黒屋光太夫を連れて根室に来航、通称を要求。
1793年:松平定信、失脚。
「尊号一件」で孤立を深めていた松平定信が老中を解任。
1798年:近藤重蔵、千島列島探検。
1800年:伊能忠敬、蝦夷地探検。
1802年:十返舎一九、「東海道中膝栗毛」出版。
1804年:ロシアのレザノフ、長崎来航。
1805年:関東の治安維持のために「関東取締出役」設置。
1808年:間宮林蔵、樺太探検。
同年、「フェートン号事件」発生。英国船が長崎に侵入し、薪水・食料を強要し帰国。責任をとって長崎奉行切腹。
1809年:間宮海峡発見。
1809年:式亭三馬、「浮世風呂」発表。
1811年:「ゴローウニン事件」発生。ロシアの軍艦艦長ゴローウニンを国後島で逮捕。1812年:ロシアが高田屋嘉兵衛を国後島で逮捕。
1817年:英国船が浦賀に来航。
1821年:伊能忠敬、日本全図を完成。
1822年:大蔵永常、「農業便利論」発表。
1825年:「異国船打払令」施行。
1827年:薩摩藩で調所広郷の藩政改革開始。
改革内容は、琉球との密貿易、奄美大島特産のサトウキビの専売(領民を相当しごいた)、借金の返済期日を無理矢理に長期にわたって延期させたことであり、かなり過激。まさに「痛みを伴う改革」。
頼山陽が(日本外史)を著す。 源平2氏から徳川に至るまで、武家が政権を握る過程を著述。「史記」を模範とし、尊皇攘夷運動に影響。
1828年:「シーボルト事件」勃発。幕府天文方高橋景保がオランダ商館医師シーボルトに日本地図、蝦夷地図、葵の紋服を譲ったことが発覚。シーボルトは国外追放。高橋景保は死罪。
1829年:葛飾北斎、「富嶽三十六景」を描く。
1833年:歌川広重、「東海道五十三次」を描く。
1834年:水野忠邦(1794-1851)老中就任。
1837年:「大塩平八郎の乱」勃発。前年の飢饉に際し、東町奉行跡部山城守が対策を講ぜず米を江戸に回送。結果として米商人が暴利を貪った。これに憤った元大阪町奉行所与力大塩平八郎が与力、同心とともに挙兵。大阪城代土井大炊頭は西町奉行堀伊賀守に出兵を命じ鎮圧。大塩平八郎は逃亡するも隠れ家を襲われ、火を放って自害。しかし、大塩平八郎は生きているという噂は絶えず情勢は不安定に。越後柏崎でも国学者生田万が叛乱し鎮圧される。
2005年2月28日テレビ朝日放送の「八丁堀の七人」では堀伊賀守と大塩平八郎の挙兵を密告した江藤六平太(役:嶋田久作)の物語が展開。
(位:1837-1853)
1837年:第12代将軍就任。
同年、「モリソン号」事件発生。日本人漂流民を乗せて浦賀沖に来航したアメリカ船モリソン号を幕府が砲撃。
1838年:中山みき、天理教を始める。
1839年:水野忠邦、老中首座就任。
同年、「蛮社の獄」。「モリソン号事件」を批判した高野長英、渡辺崋山。渡辺崋山は蟄居となり、後に自害。高野長英は脱獄したものの後に捕まり自害。
1841年:徳川家斉薨去。
水野忠邦、「天保の改革」に着手。
風紀を粛清、株仲間解散、人返し令を実施。
1842年:「天保の薪水給与令」。外国船打払令を緩和、外国船に薪水食料を与えることを定める。
1843年:「江戸・大坂10里四方上知令」公布。江戸・大坂10里四方の大名、旗本領を幕府直轄地とし代替地を与えることを目指すも批判が相次ぎ、水野忠邦は老中を罷免される。
福山藩主阿部正弘(1819-1857)が老中就任。
1844年:水野忠邦、筆頭老中復帰。
1845年:水野忠邦、腹心の鳥居耀蔵らの不正を問われ減封の上、蟄居。
同年、阿部正弘が筆頭老中就任。
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